ぼくはレスブルックの市にやってきていた。
もちろん使用人として買い付けのためになんだけど、今日は隣にリリーがいない。
この間の地揺れの一件でリリーは謹慎を言いつけられたので、屋敷から出ることができない。ぼくはもともと謹慎中で厨房の利用を禁止されていた。使用人としての仕事があるから、ってことでそれ以上の制限はなかったんだけど、だからといってお咎めなしというわけにもいかず、じゃあどうするかというと、今度はお嬢様のお世話を禁止された。これはリリーに対するものでもあると思う。
頭を冷やすにはちょうどいいのかもしれない。
爺の言いつけを破って山の様子を見に行ったことは、間違いではなかったとぼくは思っている。山道を速やかに封鎖できたたおかげで、誤って魔境に入った領民はゼロだし、今レスブルックにいる行商人にも、領外へ出るにはルーブラを経由するよう通達できた。大きな混乱もない。
リリーは領主の娘としての責任を果たしたかったんだと思う。成人の祝いの席は残念ながらああいう形になってしまったけど、これから一人前としてやっていかなければいけない、そう考えていたんじゃないか。
でも、ちょっと焦っているようにも見える。何に焦っているのかはわからないけれど、爺はそのあたりを心配しているんだろう。
市での買い物は一通り終えたところで、もう帰ってもいいのだけど、ぼくにはまだやることがある。
ぐるりと市を見渡して……見つけた。
「すみません、糊ってありますか」
目を瞑ってじっと座り込む、旅装束の商人に声をかける。
「高いぞ」
そういって商人は瓶を取り出して置く。
「知ってます。いくらですか?」
「小銀貨一枚半」
「顔馴染みじゃないですか。朧銀貨三枚」
「相場もわからぬ小僧のことは知らぬ。小銀貨一枚半だ」
「小銀貨一枚」
「一枚半」
ぐぬぬ。
「少しは手加減してくださいよ、師匠……」
渋々白鑞貨十五枚取り出して、手のひらに乗せる。
そう、ぼくは師匠から糊を買うために市での買い出しを買って出たというわけだ。ただ、今の支払いで買い出しのついでに糊を買ったというより、糊を買うついでに買い出しをしにきた、という感じになってしまった。出費が重い……。
「我から値切ろうなど十年早い」
それから師匠は「まあ」と前置いて、
「本当に知ったふりをするのなら、もっと値切るべきだったな」
指を三本立てたところから、一本折って、にやりと笑う。
「ああ!? そんなに安いんですか? ぼったくりじゃないですか!」
指三本でなく、二本なら。
つまり、最初に朧銀貨二枚と言っておけば、朧銀貨三枚で済んだ、ということだ。倍近く違う。
少しふっかけるくらいでちょうどいい、と思っていたつもりだったけど……。
「最初に値段を聞いたのもまずかろう。足元を見られる」
そういって呵呵と笑う。
「修行が足らぬ、ということよ」
けれども、ぼくだって転んでただで起きたりはしない。
「払い過ぎた分、教えてほしいんですけど」
「ほう」
勉強代が高すぎるなら、値段に見合う分だけ勉強させてもらったほうがいい。
「この糊って、何で出来ているかわかりますか」
「見たであろう?」
師匠が糊を採取しているところなら、先日間違いなく見ている。ぼくが聞きたいのはそうではない。
「はい、もちろん。ですから、あれが何で出来ているのか、ということです」
「そういうことか」
これは我の考えに過ぎないが、と前置いて、師匠はあれについて話してくれた。
「なるほど、よくわかりました」
どうやら〈わたし〉の想像からそれほど外れていないらしい。
師匠に聞いてわかるかどうかはちょっと自信がなかったけど、聞いてみるものだ。
「その顔だとあたりはつけていたようだな。我に聞く必要があったのか?」
「確証がほしかったので」
「そうか……だが、何故あれがそうだと考えた?」
〈わたし〉の知識に照らし合わせたら、そうなのではないかと思ったのだけど。
答えあぐねていると、師匠はフ、と笑って、おかしそうに言う。
「地揺れで頭でもおかしくなったのかもしれぬな」
「頭がおかしいっていうのは、あんまりですよ」
「だが、少し変わったのは違いない」
目は閉じたままでも、じっと見つめられているような気がして、背筋が伸びる。
「それは……そうかもしれません」
「やりたいことを見つけたのだな」
「はい」
力強く答える。
師匠は頷き、穏やかに言う。
「迷いなく励むがよい」
これは、はなむけの言葉だ。
これきり会えなくなるわけではない。けれども、道はここで別れている。同じ道を歩くことはきっと、ない。
こみ上げてくるものを、ぐっとこらえて、静かに返す。
「師匠も、お元気で」
「うむ」
そうしてぼくは師匠に背を向けて、市を去る。
糊の原料は、コボロの液質である。
糊のもとになる液質には幻素が含まれない。幻素が含まれるなら人間にとって有毒だから、洗濯糊のような身近な用途には適さない。経験的に危険性がないことがわかっているから、幻素は含まれていないと考えていい。幻素に対して鋭敏な感覚を持つ師匠が、コボロやトラバミから幻素を感じないということは、やはりそれらの生き物は幻素を持たないのだろう。
だからといって、経口摂取して大丈夫かどうかはわからない。
「というわけで、実験する」
厨房は立ち入り禁止になってしまったので、いつだったかパン窯を作った場所に来ている。パン窯は野ざらしにしてしまったのでこのままでは使えない。パン窯の方は中のゴミを取り除いて、中で火を起こして乾かせばいいとして、今回はそれとは別に調理台もほしい。そういうわけで、石を組んでかまどを作る。難なく完成。
火をおこす。鍋に少量水を入れて火にかける。
煮立ってきたところに糊を入れて溶く。
本当は火にかけずに生の状態で確認したかったんだけど、流石に寄生虫や菌の懸念があるので、安全のために煮沸消毒をする。
糊の製法は教えてもらえなかったのでわからない。ただ、これはコボロの液質そのものではないような気がする。色は無色透明。洗濯糊に使うのに薄緑では困るし、なんらかの方法で粘りのある成分だけ抽出したのだろうと思う。
焦がさないように水を足しながら、煮沸。水気を飛ばしてやるととろみが出てくる。加熱でさらさらにならないということは、これは膠のようなたんぱく質の類ではなさそうに見える。
焦げ付かない程度に水分を飛ばしたら鍋を下ろす。
味見。
微量では問題ないだろうとして、どの程度の量まで大丈夫なのか。指先で糊を軽くすくって、舌先で軽く触れる。おおよそ無味という感じ。
そのままぺろりと舐め取ってみる。
「ほんのり甘い気がしないでもないけど、なんだろうな」
香りも特にない。ただ粘つくだけである。
鍋に残った糊に唾液を混ぜる。五分から十分くらい置いておく。時計があるでもないので、体感時間で適当に。
もし糊の主成分がでんぷんなら、これで甘くなると思うんだけど。
「味は変わらないので、そういうわけでもなし」
鉄板を火にかけて熱し、鍋の中身を垂らす。ジュッと音を立てて勢いよく泡立つ。
「カラメル色になるまで煮詰めて……と思ったけど、変色さえしない」
ということは少なくともでんぷんや糖でもない。
もっとも、仮に主成分がでんぷんや糖だったからといって、他の成分が全くの無害だという保証はない。予定通り、経口摂取の量と経過を記録することにする。
それとは別に、つまり経過の記録とは並行して、これが本当に使えるのかどうかということも確かめないといけない。
安全性が確認できたところで、それが何に使えてどういう効果をもたらすのかがわからなければあまり意味がないし、わかったとして「やっぱり役に立ちませんでした」となると、それまで安全性の確認のために費やした努力が無に帰すことになる。
水に溶いてスプーンでぐるぐるとかき混ぜる。多めの水に溶けばさらさらになるけれど、水が少なければ糸を引くくらいの粘りが出る。
「水に溶かすと粘りが出て、乾いて水分が抜けると固まる」
地揺れの直前にリリーと話していたことを振り返る。
『パイ……といったかしら。あれは、パンを作ろうとしてできたものじゃないの?』
『そうといえばそうなんだけど、あれじゃまだパンには程遠いよ』
ヘラムギの生地にカブイモのでんぷんを添加した。それは生地に粘りを出し、弾性を持たせるためだった。結果できあがったのはパイ生地のようなもので、カブイモでは足りなかった。
そこでぼくが何と言ったか。
『糊みたいなものがあればいいんだけどね』
そう、糊だ。糊みたいなものがあれば、と言った。
今ここにあるのは間違いなく糊みたいなものだ。
これがあったら、パンが作れる!
たぶん。