「ひっ」
リリーが小さく悲鳴をあげる。
「スラ……コボロだよ」
ついスライムと言いそうになって、言い直す。〈わたし〉の記憶ではそれはまごうことなきスライムなのだけど、こちらの世界には、このような生き物をまとめて指すような名前は特にない。
しいていうと、歩くコケ? 這って移動するのだから正確には歩くわけじゃないし、薄緑色の半透明の塊をコケと呼ぶのも、ちょっと変な感じはする。もっとも、〈わたし〉の知識があるからだとも思うけど。〈わたし〉の知識で〈わたし〉の世界の現実のものにたとえるのなら、巨大なネンジュモというのがしっくりくるかもしれない。はいよるネンジュモ。そう考えると確かにちょっと気味が悪そうだ。
「特に人間に害とかないから、放っておいて大丈夫」
そういってリリーを安心させる。アムも師匠も、まったく気にかけていない。
「ど、どうしてあなたたちは平気なの?」
「そう言われても」
「魔境だとどこにでもいるもんね」
アムが苦笑する。
「その、コボロ? っていうのよね。放っておいて本当に大丈夫なの?」
「あれらは、草木のようなものよ。むしろたくさんいたほうがよい」
師匠は虚空をじっと見たまま、そう呟く。
前に聞いたことがあるだけで実感がないのだけど、師匠が言うにはコボロやトラバミは、幻素を食べているのだという。実際、コボロやトラバミが増えた後は、魔境が縮む。減った後は、魔境が拡がる。それは、コボロやトラバミたち魔境の植物が、幻素を消費しているからだ、と師匠は考えているのだろう。
もしかしたら本当にそういうふうに見えているのかもしれないけれど、ぼくには見えないから、これは推測に過ぎない。
「ところで師匠。この魔境って、どれくらい先までそうなってるかわかりますか?」
「山向こうまでずっとだろうな」
即答が返ってくる。
「い、いやいやいや。それって結構な大事なんじゃ……」
トゥレーディ族の集落は山向こうにある。牧人は狩猟も採集もするから、野営をしながら自給自足の生活を送ることはできる。
ただ、そうはいってもやっぱりトゥレーディ族のみんながいる集落とは安心感がぜんぜん違う。万が一のことだってあるのだし。
というか、山一帯が魔境化するなんてことが本当に起こり得るのだろうか。
起こり得るかどうかの話をするのなら、たとえば今のぼくの身体には〈ぼく〉と〈わたし〉の二人分が入っている。それだって充分おかしいけれど、だからこそ、そんなにおかしなことが立て続けに起こったりするのだろうか。
いや。
立て続けに起こっているんじゃなくて、ぜんぶ一続きだったりするんじゃないのか。つまり、〈わたし〉がこっちに呼び寄せられて、〈ぼく〉と一緒になるところも含めて、ぜんぶ関係している……? 何がどうなって関係しているのかまでは、わからないんだけど。
ふと師匠の方を見やると、おもむろにコボロに近寄ろうとしていた。
「師匠?」
コボロのそばにしゃがみこむと、懐から何かを取り出して、地面の上に広げた。革袋、だろうか。
コボロをその上に乗せて、牧杖で一突き。
ずぶりと音を立てて、漏れ出した粘液を革袋が受け止める。液体を、採っているのだろうか。杖の先にコボロの皮を引っ掛けるようにして持ち上げると、茂みへと放り投げた。外の皮の部分はいらないらしい。
リリーがぼくの袖を引っぱる。
「あれは、何をやっているの?」
「液体を集めてるんだと思うけど……アム、わかる?」
「え、トーマは師匠から聞いてない?」
ぼくの問いかけに、アムは不思議そうに首をかしげる。
「ああ、お前には教えてなかったな。これもまた、魔境での生業になるのだ。魔石ほどでの実入りはないがな」
「何に使えるんです?」
「コボロの粘液は水に溶け、乾くと固まる。街の人間は糊に使うと聞く」
「糊……ああ、これが」
リリーが納得したように呟く。
「行商人じゃなくて、牧人から買っていたのね」
「どうして教えてくれなかったんですか?」
「コボロが減ると、魔境が拡がる。金のためにみだりに採ったりせぬのが、掟だ。牧人の試験を乗り越えたら教えるつもりだったが」
その割にはアムにはもう教えているよね、と思ったら、アムが言う。
「本当は試験の前に教えてもらえるのよ。師匠のことだからどうせ、トーマは試験なんか簡単に突破するから、その後でいいだろうって思ってたのよ」
師匠は何も言わない。都合が悪くなったら、聞こえてないふりをするのだ。他の人よりもずっとよく聞こえているはずなのに……。
「確かにこれがお金になるってわかったら大変だね。誰でも簡単に取れちゃうし」
「誰でも、ってことはないと思うけど……」
師匠の手にした革袋から薄緑の液体が滴り落ちる。
どろりとした粘液が地面に広がる。
リリーは薄目でちらりと見ると、うう、と小さく声を上げて目を背けてしまった。
どうやらお嬢様はコボロがちょっと苦手みたいだ。
その後、もう少しだけ魔境の入り口の様子を見てみたものの、どうして魔境になったのか、原因どころか手がかりさえ掴めないまま山を降りることになった。
師匠とアムは山の麓の野営地へと。ぼくたちは屋敷に帰る。
その道すがら、リリーが呟く。
「怪物……って、はじめて見たわ」
「ああ、うん。ふつうは見かけないもんね」
「でも、トーマは見るの、はじめてじゃなかったじゃない」
「ぼくたちはね。怪物のすぐ近くで暮らしてるから」
リリーはそれきり黙り込んでしまった。
何か言わなくちゃ。そう思ったけれど、何を言っていいのかわからないし、何を言いたいのかもわからなくて、口をもごつかせて、結局ぼくも黙り込む。でも、やっぱりなんとなく落ち着かなくて、そういえば、と、思い出したことを口にする。
「帰ったら、やっぱり怒られるかな」
「……そうね。ううん。わたしがトーマを連れ出したことにすれば、トーマは怒られないかも」
「そういうわけにはいかないよ。それに、主人の行動を諌めるのが、真に主人に仕えるもの……のような気がするよ」
「見習い従者のくせに」
そこでようやく、リリーの口元が綻ぶ。苦笑いではあったけれど。
「それより、これからのことのほうが心配ね。山が封鎖されるってことは、山を超える経路が使えなくなるっていうことだもの」
「それはぼくも考えてた」
男爵領の山向こうには、伯爵領がある。
伯爵領の更に向こうに、ノルサント王国がある。
山が封鎖されると、伯爵領との最短の交易路が絶たれる。間接的にノルサントとの交易にも支障が出る。ただ、それらはそれほど大きな問題にならない。迂回してルーブラを通ってレスブルックまでやってくればよいのだから。
それよりずっと困るのが、牧畜の民との交易が完全に途絶えてしまうことだろう。
レスブルック市の特産物はラクの毛を使った毛織物だ。ラクの毛は誰が持ってくるのかといえば、ラクを飼う牧畜の民である。冬仕度を終えた後なのは不幸中の幸いだけど、魔境化がいつまで続くのかによっては、来年の冬をどう過ごすか考えないといけなくなる。
「わたしたちだけで悩んでも仕方がないわね。お父様と相談して、それからどうするか考えましょう」
どこか遠くを見るように、リリーはそう言った。
本当は何も悩んでなんかいなくて、もう何をするべきか決めているようにぼくには見えた。どうしてなのだか、わからなかったけれど。
それから屋敷に帰ったぼくたちがどうなったかというと……リリーは領主様に、ぼくは爺に、それぞれこってりと絞られたのだった。仕方ないね。
けれども、ぼくはただ怒られていたわけではなかった。いや、怒られていたのは事実なのだけど、怒られながらも、ぼくの脳細胞は画期的な閃きを元に、素晴らしい考えを生み出していた。
これは……革命だぞ!
なお、真剣に話を聞いていなかったとして、さらなる怒られが発生したのは言うまでもない。