グルテンフリーパンというものがある。
麦類のグルテンは人によっては人体にある種の疾患を引き起こすことがあり、これらの疾患を持つ人はグルテンを含む小麦製品を食べることができないし、疾患の懸念から積極的にグルテンを摂取したくないという人もいる。そういう人たちでも食べられるように作られたのがグルテンフリーパンである。グルテンを含まないように小麦をはじめとした麦を使わず、大豆や米を使って作られるパンである。
グルテンは接着剤の役割を果たすもののことだから、グルテンフリーということは、パン生地に弾性をもたらす要素を欠く、ということになる。米はでんぷんに粘りがあるとはいえ、小麦グルテンほどの弾性を生地に与えることはむずかしい。でんぷんの含有量の少ない大豆粉は言わずもがなだ。
パンが膨らむのは、醗酵によって生じたガスを生地が閉じ込めるからなんだけど、グルテンのない生地はうまくガスを閉じ込めることができない。だから米粉や大豆粉でパンを作っても、ふっくらしたパンにはならない。
そこでどうするかというと、グルテンの代わりの接着剤を足してやる。それが増粘剤だ。ゼラチンや寒天も増粘剤の一部で、ゲル状にする働きがあるのでゲル化剤として使われる。多くは植物由来の食物繊維で、水に溶けて、粘りを出したりゲル状にしたり乳化を安定させたりする。グルテンフリーパンの場合、グアー豆の胚乳だったりオオバコの種皮だったりを増粘剤として使う。
米粉や大豆粉の生地に粘りを出すための増粘剤を加えることでガスを閉じ込めることができるようになり、ふんわりとしたパンにすることができるというわけだ。もちろん小麦のパンと同じというわけにはいかないが、そこはそれ、それぞれの素材を生かしたパンがあるだろうと思っている。大豆粉パンは大豆粉パンのよさ、米粉パンには米粉パンのよさ、それぞれのよさがある。
かくして、麦類を口にすることができない人でも、おいしいパンを食べられるようになった。
もっとも〈わたし〉はグルテンに不安を抱いたことはないし、グルテンによると思しき疾患も体験していない。でも、かつては牛乳アレルギーの人のための代用品だった豆乳が、今では豆乳ならではの味わいために、あえて豆乳を選ぶ人も増えている、そういう地位を得るまでになった。だったらパンだって別に小麦以外で作ったっていいじゃない、と思ったし、そういうものが存在するってわかったら作って食べてみたくなるものだ。
そんな〈わたし〉の経験がなかったら、コボロの糊を増粘剤として使おうなんて考えなかっただろうから、何がどう作用するかわからない。
コボロの糊が本当に増粘剤になるのかは、試してみないとわからない。
実際に作っていこう。
ちょっと重めに溶いたものを、バニッジの生地に練り込む。本当は生地に練り込んだ後で醗酵させるのがいいんだけど、バニッジ種の醗酵については未だによくわかってないことが多いので、まずは出来合いの生地に練り込むところから確かめる。
練り込む時点での触り心地からして、素のバニッジの生地とも、カブイモでんぷんを練り込んだ生地とも違う。確かな弾力がある。もちもちというよりはぷにぷにという感じ。ちょっとゴムっぽい。
もちろん、焼き上がりがどうなるかまでは試してみないとわからない。
試し焼きにあたっては、丸めたもの、丸めてから軽くつぶしたもの、平たく延ばしたものをそれぞれ用意した。
パン窯に火を入れる。大丈夫、ちゃんと使えそうだ。
生地を入れ、焼成する。
パンの焼けるいい香りに、思わず期待が膨らむ。
はたして、焼き上がったものはどうだったかというと、硬いパンになった。
丸めたほうはつぶれず、かといって膨らまずで、丸めてつぶしたほうも、つぶれたまま特に膨らんだりはしていない。
平たく延ばしたほうは、ふつうに平たく延ばしたパンになった。
だいたいどれも予想から大きく外れてなくて、どれも膨らまなかった。
生地には確かに弾力があった。
けれども、生地がガスを含んでいなかったのではないかと思う。バニッジ種は醗酵しても膨らまない。たぶん、醗酵したそばからガスが抜けている。ガスを生地に含ませるために、醗酵前に糊を練り込む必要があると思う。今回は醗酵させたバニッジの生地を使ったから、それでうまくいかなかったんじゃないかな。
期待は膨らんだけど、パンは気体で膨らまなかったというわけ。
もっとも、完全に失敗だったわけじゃない。焼き上がったのは硬いパンだった。
これまでに焼いてきた試作パンの中で、これが一番パンに近い。
見た目はバニッジと大差ない。触った感じもあまり変わらない。
ちぎる。もっちりとした感じは全然ない。
けれども、バニッジとは違ってちゃんとちぎることができる。
どっしりしたライ麦パンみたいな手触りだ。
まずは一口。
「……?」
咀嚼。もう一口食べる。
「おいしくない……」
これは……だめだ。
食感は確かにパンっぽい。けど、味のほうはぜんぜんだめだ。これだったら食感で劣るバニッジのほうがずっとおいしい。
ライ麦パンのような見た目どおり、食感もだいたいそのような感じになっている。バニッジのようにはボソボソとしていなくて、いくぶん口当たりはやわらかい。
ただし味はバニッジよりもずっと悪い。
糊を入れたせいなのか、ヘラムギ本来の味のせいなのかはまだわからない。両方かもしれない。ヘラムギ単体で食べておいしいなら、グリュエルだってもっとおいしいはずだから、後者の可能性は大いにある。
ヘラムギは醗酵させてもほとんど甘くならないけれども、それでも醗酵させないよりは多少甘みが出る。これは醗酵させずに作った最初の平焼きパンと大差なく、味がしない。泥と称したグリュエルと同じくらいにはおいしくない。
味がバニッジ未満に後退しているということは、糊にも原因があるかもしれない。糊自体は特に変わった味はしなかったんだけど。
課題は三つある。
まず、糊を練り込んでから醗酵させたとして、ちゃんと膨らませることができるかどうか確かめること。
次に、パン自体の味をちゃんとおいしくすること。
最後に、糊を食べて大丈夫かどうか確認すること。これは定期的に摂取を続けてみないとわからない。もちろん、死にはしないと思ってるから自分の体で実験できるんだけど。
課題が見えるとゴールが見えてくる。リリーに拾われてだいたい一〇〇日くらいにして、ようやくゴールとそこまでの道筋が見えてきた。
そこで後もう少しだと思ってしまいがちなんだけど、遠くにそびえる背の高い山まで、歩いてどれくらいかかるのか。実際に歩いてみて、その山がどれくらい大きかったのかを知るまでわからない。それでもぼくはあの山まできっと行こう。
それから二週間が経ち、やがてぼくとリリーの謹慎が明ける。
のだけど、これからというそのタイミングで、ぼくは原因不明の腹痛にさいなまれることになるのだった。