「山道が……魔境に?」
聞いたことがない。
確かに魔境は、時期によって広がったり縮んだりする。
魔の森周辺の森が一時的に魔境のようになることはある。
でも、なんでもないところが突如として魔境になることは、ない。
「ありえない」
「怪物を見たって言っても?」
アムは真剣な顔で言う。
わかってる。アムが嘘をつく理由もない。
「……すぐには信じられないけど。でも、アムが見たって言うなら、怪物がいるのは間違いないと思う。怪物がいるなら……」
本当に魔境になってしまっているのだろう。
そんなことがありえるのだろうか。
「どんな怪物がいた?」
「モリハズリとか、サビウサギとか……小さい怪物だったと思う。ほかは、コボロとか、トラバミとか」
「ってことは、ふつうに魔境にいる怪物か……」
モリハズリはアナグマに似た怪物で、サビウサギは鋭い犬歯を持つウサギ似の怪物だ。魔境の浅いところでは比較的よく見かける。
どちらも人を襲うけれど、怪物といっても身体が小さいので、杖で払い飛ばすくらいのことはできる。
もちろんそれは牧畜の民が訓練を受けているからではあるのだけれど。
コボロは、緑色の不定形の怪物だ。いわゆるスライムのような姿を想像するとわかりやすい。トラバミはハエトリソウのような葉を持つ大型の植物の姿をしている。一見動かないようにみえるけれど、よくよく見ると這って移動しているのがわかる。植物といっていいのかどうかはわからない。
コボロやトラバミは人を襲うこともないし、触れて怪我をしたり毒に冒されたりするわけでもないので、ほとんど無害といっていい。しいてあげるなら幻素の害があるけれど、幻素なんて魔境中に漂っている。魔境に入る時点で今更だ。
「でも、どうしてなんでもない山道がいきなり魔境になったりしたのかしら」
リリーが疑問を口にする。
それは……とぼくが口を開くよりも早く、アムが答える。
「やっぱり、地揺れが関係あるんじゃないかなって思う」
「まあ、そうだよね」
ぼくも同意するけれど、リリーは首を振る。
「地揺れと関係があって魔境になるのだとしたら、これまでの地揺れで魔境にならなかったのはなぜかしら? たとえば、わたしがトーマを拾ったときの地揺れでは、山道はなんともなかったでしょう?」
「それは……」
リリーの指摘にアムが言葉を詰まらせていると、後ろから足音がする。
「なんだなんだ、帰りが遅いと思って様子を見に来てみれば……そこにいるのはトーマではないか」
懐かしい声に、ぼくは振り返る。
真っ直ぐな杖を手に、白髪の牧人が立っているのが見えた。よく知るその姿は、
「せ、師匠!?」
ほかの誰でもない、ぼくの師匠だった。
牧畜の民の一団は、異なる人種、異なる民族が集まって形作られる。ぼくのように黒い髪に黒い瞳というのは珍しかったけれど、いろんな髪の色、瞳の色、肌の色の人が一緒になって生活をする。
アムは栗色の髪に、鳶色の瞳。
師匠は、真っ白な髪に——どんな色の瞳なのか、ぼくは知らない。トゥレーディ族の誰も知らないだろう。師匠の双眸は、閉ざされたまま開くことがない。誰も師匠の目が開いているところを見たことがないのだ。
幼かったぼくが師匠に尋ねたことがある。目は開かないのか、と。
師匠は曖昧に笑うだけで、答えてはくれなかった。
結局わからないままだ。
師匠は迷いなくこちらを向いて、ぼくに話しかける。
「トーマが生きているとは聞いていたが。里にいるときよりも達者にしているのではないか?」
「いいえ……師匠もおかわりなく。無事な姿を見せることができないでいて、すみません」
「気にするな」
師匠と話しているときは、妙に緊張する。何もかも見抜かれているように感じる。
リリーがぼくの袖を引いて、小声で尋ねる。
「あの、そちらの方……目は……?」
その続きを口にするのは躊躇われるようで、そこで言いよどむ。
「見えぬよ」
笑いながらなんでもないことのようにそう言って、師匠はリリーの方を向く。
まるで見えているように。
「そちらのお嬢さんは、はじめましてになるか。我はイオノーという。不肖の弟子が世話になっているようだな。見たところなかなかに育ちのよい方のようだが」
「こちらにいるのは、リリーです。あの地揺れの日にぼくを助けてくれた恩人で、今働かせてもらっている屋敷の主人の娘です」
「なるほどなるほど、そういうことか」
ぼくの答えに、師匠は楽しそうに頷く。
リリーは、そんなやりとりをぽかんとした顔で眺めている。
アムは呆れたふうに、「あんまり人をからかうものじゃないですよ」と、ため息まじりに言う。
「ほ、ほんとに見えてないの……?」
「目では見えてはおらぬよ。しかし、世は目で見るだけが全てではなかろう。耳で聞き、肌で感じるもまた、この世のものの見方であろう」
「で、でも……」
アムやぼくにとって、かたときも目を開かない師匠がなんでも見たふうにいうことはごく日常のことなのだけど、リリーには、目が見えない世界がまったく想像ができないようだった。
いや、ぼくだって想像はできない。
アムだってそうだろうし、〈わたし〉もそうだ。
「お嬢さんも、一度その目蓋越しにこの世を見ようとしてみるとよい。普段は見えぬものが見えたりするやもしれぬ」
さも簡単そうに師匠は言う。
「相変わらず、意地が悪いです。師匠には、わたしたちには見えないものが見えるじゃないですか」
アムが口を尖らせる。ぼくも同感だ。
「見えないものが見える、って?」
困惑するリリーに、師匠は「そうだな」と言って、山道の先を指差す。
「想像はついている。おおかた、幻素が漏れ出しているのであろう。どのみち我も確認する必要があったのだし、これから見に行くのが早かろう」
「わかっててわたしに様子を見に行かせたんですか?」
にい、と口の端を歪める師匠に、アムは肩を落とす。
「そう腐るな。おかげでこうしてトーマの顔を拝めたではないか」
「まあ、いいですけど……」
師匠が山道を進もうとすると、リリーが呼び止めるように声をあげる。
「あの!」
振り返る師匠に、おそるおそる尋ねる。
「この先って、怪物が出る……んですよね? 大丈夫……なんですか?」
「そんなもの、こうすればよかろう」
言いながら、杖を軽く振ってみせる。
「……トーマは杖を持っておらぬな。いや、アムが持っているのだったな」
師匠の言葉を受けるようにして、アムがぼくに杖を差し出す。
受け取ると、アムは穏やかに微笑んだ。
少しくすぐったくて、ぼくは目をそらすようにして、杖を持つ手を見やる。
しばらくアムが使っていたからか、ぼくの手が変わったのか、どちらかわからないけれど、ほんの少しだけ馴染みのない感じがした。あるいは、単に持つのが久しぶりだったからというだけかもしれない。
「しばらく振っておらぬだろう。使えるか?」
「サビウサギに遅れを取るほどではないと思ってますけど」
「え、え?」
まさか怪物と戦うんじゃ……リリーの目はそう言っているように見える。
「心配しなくても、リリーもアムも、後ろで見てるだけで大丈夫だから」
アムは心配なんてしてないと思うけどね。
それに、ぼくの出番さえ怪しいものだ。
師匠がいるのだから。
こうして、ぼくたちは魔境へと向かったのだった。