揺れはたいしたことはなかった。
たいしたことはなかったというのは〈わたし〉基準だ。
リリーはすっかり恐慌してしまって、揺れがおさまった今も、ぼくにしがみついて震えている。
おかしいと思わないといけなかった。
〈ぼく〉が〈わたし〉と合流したときに、〈ぼく〉が体験した地揺れ。
崖が崩れるほどの地揺れが起きたのに、ぼくが崩落した崖からそう離れていない屋敷の住人に命を救われた。屋敷に地揺れの被害は、まったくなかった。
石組みの建物が? 崖崩れが起きるほどの地震で無傷?
今の地震は、大したことはなかった。棚の物がカタカタと音を立てたりはしたけれど、それだけだ。物が倒れるとか、立っていられないとか、日本では数年に一回は経験する規模の地震に比べても、ごく穏やかな揺れだった。
それでもリリーはこんなにも怯えてしまっている。
「ねえリリー。ぼくが崖崩れに巻き込まれたときの地揺れは、今のよりも大きかった?」
「……ううん。今よりずっと小さかったわ」
か細い声で、リリーが答えてくれる。
今よりもずっと小さな地震だった。それなのに、崖崩れは起きた。
たとえば、前の地震よりも今の地震のほうが、震源が屋敷に近かった。
それはありえなくもない。
それでも、たとえ前の地震のほうが震源と屋敷が離れていたとしても、崖崩れが起きるほどの被害のあった山道から程遠くない屋敷でたいして揺れなかったというのは、どこかおかしい。
山道がもろかったのだろうか。
考え込むぼくの顔を覗き込んで、リリーが問う。
「どうして、トーマは平気なの?」
一度は地揺れで死にかけているのに。リリーの目はそう言っているように見えた。
そう言われてみればそうなんだけど、今くらいの揺れだと、〈わたし〉にとっては日常だし、それに、〈わたし〉が電車の中にいて遭遇した地震と、〈ぼく〉が巻き込まれた崖崩れ、どちらも記憶としては曖昧なのだった。
気がついたときにはもう屋敷にいたのだから。
でも、確かにもっと怖いと感じても不思議はない。なんだけど、自分より怖がっている人間が身近にいると、あんまり怖くない、ということもあるかもしれないね。
ぼくは返事をせず、そっとリリーの肩を抱く。怖くないよと伝えるつもりで。
それより、確かめないといけないことができた。
「……後で山の方を見に行こうと思う。リリーは、ひとりで平気?」
ぼくの言葉に、ふるふると首を振る。
〈ぼく〉の記憶からいっても、この国で地震が起きることはほとんどない。身体に感じない程度の弱い揺れでさえ、たぶんない。一年のうちに二回も地震が起きるというのは、異常事態といって差し支えないと思う。
「ひとりでも平気っていったら嘘になるけど、そうじゃなくて。わたしも、見に行きたい。山の様子をこの目で見て、確かめたいの」
声は少し震えていたけれど、その目はしっかりとぼくを見つめていて、一分の揺るぎもない。
安全の保証はない。
何もしないで、屋敷で事態が落ち着くのを待ったほうがいい。
そんなふうに逡巡していると、「お嬢様、ご無事ですか!?」と、部屋の外から声がかけられる。
「爺! わたしは無事よ!」
ドアが開き、爺が入ってくる。
爺はリリーとぼくの様子を見て、明らかにほっとした顔をする。
胸をなでおろして、
「よくご無事で」
と、短く言い、安堵の息を漏らす。
おおげさとは言うまい。
家具が倒れて下敷きになったりする可能性はある。そんなには揺れてないけどね。
「旦那様とレイフリック様はご無事です。今は街の様子を見にお出かけになっておりますが……私はこれから、他のものの様子を確認してまいります。くれぐれも、ここを離れないでくださいませ」
いつもよりちょっと険しい顔つきで、少し早口にそう言うと、爺は足早にどこかへと去っていく。他の使用人の様子を確認するのかもしれない。
「って、爺は言っていたけど」
ぼくは、ここでじっと待っていたほうがいいのかもしれないと思いはじめている。
何もしない勇気も必要だと思うし、動くべき人は動いている。
けれども、リリーは首を振る。
それから、ちょっとかすれた声で、けれども、確かな眼差しで、ぼくに言った。
「お父様もお兄様も、街の様子を見に行ったのでしょう? じゃあ、誰が山の様子を見に行くのかしら。もし山で何かが起きてるんだったら、やっぱりそれは確かめておいたほうがいい。たとえわたしに何もできることがなかったとしても、確かめなかったことを後悔したくないもの」
こっそりと屋敷を抜け出して、ぼくとリリーは山へと向かう。
街は少なからず混乱していた。
ただ、レスブルックは人口の多い過密都市ではないので、騒ぎ自体はそれほど大きなものでもなさそうだった。建物が倒れたりもしていない。
街から少し離れるだけで、すっかり静かになる。
やがて、山道の入り口に辿り着く。
一見しておかしなところはない。
山の麓の森は、少しざわついているような感じはするけれど。
こっちが震源じゃないのかな。
そんなことを考えていると、山道から誰かが降りてくるのが見えた。
粗末な野良着を着た姿に、トーマは見覚えがある。
手には、杖。牧人が使うものだ。
「アム……?」
トーマが声をかける前に、彼女もまたトーマの姿に気付いたように、なだらかな山道を駆け下りてくる。
くすんだ栗色の髪に、そばかすの浮かぶあどけない顔つき。鳶色の瞳は、どことなく曇ってみえた。
「トーマ、どうしてここに?」
「さっきの地揺れ、ひょっとしたらって思って」
「そうなんだ……ええと、そっち……じゃなくて、そちらの、方は?」
「かしこまらなくていいわ。リリーって呼んで。ええと、トーマの知り合いよね? アム……でいいのかしら?」
リリーが尋ねると、アムはこくんと、小さく頷く。
「アムは、ぼくがいた牧畜の民の一団にいて、ぼくの昔からの友人……っていうか、家族みたいなもの、かな。昔から、ずっと一緒にいたんだ」
「ふうん」
アムの頭のてっぺんからつま先までをじっくりと見回すと、リリーがぼくにじとっとした目を向けて「かわいらしい女の子ね」なんて言う。
確かにかわいい妹だとは思っているけれど、リリーは何か勘違いしてるんじゃないか。
「それで、アムは山の方から降りてきたみたいだけど……地揺れに遭って、無事だったってことだよね。山の方はそんなに揺れなかったのかな」
「あ、えっと。わたしは、地揺れのときには山にいなかったから、山がどうだったかわからないし、それで様子を見に来たんだけど……地揺れが起きたときは、山の 麓 にいたの。立っていられないくらい、大きな揺れだった。山のほうからも、けものが唸るような地響きがしてた」
「立っていられないくらい、って……」
リリーは唖然としてアムのほうを見る。そんな揺れにあったのに、どうして平気でいられるの? そう言っているように見えた。
「トーマが地揺れに遭ったときは、もっと揺れたんだよね?」
「え。あ、ああ、うん。ぼくのときも、立っていられないくらいの強い揺れだった」
ぼくの答えに、アムは何も言わずに頷く。
でも、言いたいことはわかってしまった。
トーマはわたしよりも怖い目に遭ったって思うから、わたしは怖くなかったよ。
たぶん、リリーもわかったんだと思う。ちょっと面白くなさそうに、またぼくにじとっとした目を向けてくる。
「それより! 山の様子は、どうだったの?」
山の麓は街よりも強い揺れを感じた。
街に揺れが届くまでにあまりにも減衰しすぎているとは思うけれど、それはひとまず置いておこう。
山のほうから地響きがしたのなら、山で強い揺れが起きたと見るほうが自然だ。
「わたしが見てきたところまでは、山道が崩れたりはしてなかった」
「じゃあ」
「けど」と、アムは首を振る。
「その先には、行けないよ……」
そう言って振り返ると、今しがた自分が出てきた方向を見つめてから、改めてぼくに向き直る。
「行けないって……どうして? 地揺れで山が崩れたりしてないなら」
アムは、ぼくの言葉を遮るように首を振ると、苦い顔をして、「信じられないかもしれないけれど」と前置いてから、躊躇いがちに口を開く。
「魔境に、なってるから」