男爵の屋敷のあるレスブルック市は、男爵領の東の端のほうにある。
山を隔てた隣に伯爵領があるから、伯爵領との外交を意識した位置にある……ということかもしれない。
で、その山の麓に森があり、この森は南に広がっている。その先は魔の森だ。どこからが魔の森で、どこまでがふつうの森なのか。これは牧畜の民にしかわからない。しかも、魔境の領域は時期によって収縮する。ふだんは魔境じゃない森でも、時期によっては幻素が漏れ出す危険な空間になることもある。
そのあたりを見極められるからこそ、牧畜の民が仕事として家畜たちを連れ歩くことができるわけでもある。
さすがにそんなに危険な場所にお嬢様を連れてくるわけにはいかなかったので、こっそりひとりで来た。休みの日に、リリーが起きる前に屋敷を出て、見つからないようにしてきたからたぶん大丈夫。後で何か言われるかもしれないんだけど。
さて、牧畜の民は、放牧路を巡るために家畜たちを連れて森に入るんだけど、単に森を通り抜けるだけではなく、野草やキノコの採取も行う。これを売るのも牧畜民のなりわいの一つで、重要な収入源になっている。
ただし、野草やキノコの同定は、家畜を安全に牧草地まで連れて行くこと以上にむずかしい。
誤って毒草や毒キノコを食べてしまえば、最悪死ぬこともある。
ニラとスイセンを間違って食べてしまったという話は実際〈わたし〉もよくニュースで耳にしたし、〈ぼく〉も教わっていないキノコは絶対に採るなと言われている。
ぼくが教わったのは二種類、ツチタケとクロユリタケだけで、この季節に採れるのはその片方、クロユリタケのほう。クロユリタケは、名前のとおり黒い百合の花みたいな形をしたキノコだ。これに似た毒キノコは少ない。まったくなくはないんだけど、季節が異なったり、色が違ったりする。
希少なキノコでとても見つけにくいけれど、毎年同じ場所に生える傾向がある。一度場所を覚えてしまえば、ぼくにも採れるってわけだ。
ちなみにツチタケのほうは、丸くて白いキノコで、春から夏にかけて採ることができる。こっちはとてもよく見かけるキノコなんだけど、似た形のキノコに有毒なものがあり、しかも同じような場所に生えていることが多い。
根本に壺があるかどうかで見極めることができて、壺があるものは確実に有毒。とはいえ、壺がないからといって安心してはいけない。ほかにも見分けるポイントが複数あって、同定は比較的むずかしい。そういえばこれも白い食材だな。確かに薬として珍重されていたような気がする。
春に採れるシラビョウシタケや、夏のルリモモタケ、秋のイノコダケは、それぞれとてもよく似た外見を持つ有毒種があり、見極めるのが非常に難しい。ぼくも同定方法を教わっていない。
とかなんとか考えているうちに、目的地に到着。
確かこのあたりだったはずだけど。
クロユリタケは、柄が濃い灰色で、かさは森の黒土に似た色をしている。つまり森のそのあたりの枯れ葉や土の色にとてもよく似ているので、土の上に生えていても非常に見つけにくい。コケの合間を縫って生えているところが狙い目で、コケに枯れ葉が被さっているのかと思ったらクロユリタケだった、ということがあったりする。
そうそう、ちょうどあんな感じで黒灰色の枯れ葉が……ってこれだよ! これがクロユリタケだよ!
それにしても、いい形をしている。かさの縁が波打って、ちょうど百合の花みたいな形になっている。
こんなにきれいに花の形になることはなくて、たいていはラッパ状になる。
ルリモモタケも漏斗みたいな形をしているんだけど、あっちは色が青い。あれはあれできれいだけど、ちょっと食欲をそそる色じゃない。
クロユリタケも炭みたいな色してるんだけど、食用キノコとしてはスタンダードな色だと思う。キクラゲとかトリュフも黒いしね。
他にもないかと思ったら、そこら中に生えている。なんでだろうって思ったけど、この間からしばらく雨が降ったから、キノコが育つのに適した湿気が充分にあるのかもしれない。
採り尽くさないようにほどほどに採って……これだけあれば料理にも使えるし、残りは乾燥して保存しておけばしばらくは使える。売る? まさか、もったいない。ぼくが一番ほしい。
とは思うけれど、ちょっとは売ってもいいかもしれない。
売ったお金で他の食材を揃えることもできるのだし。
クロユリタケは採ってからしばらくすると強い香りを放つようになる。
採る前はほとんどわからない。だから香りを元に探すのは難しい。動物の嗅覚だと違うのかもしれない。イノシシを使ってトリュフを探すような。でもカモシシはクロユリタケを食べないからなのかなんなのか、カモシシを使ってクロユリタケを探すということはしない。
香りは採った瞬間から強くなる。
いまはほんのりといい香りがするかなくらいだけど、屋敷に戻る頃には香りのディテールがはっきりとわかるようになるし、明日になれば袋越しでもわかる人にはわかるくらいには香りが強くなる。〈ぼく〉の記憶にある香りは、どう表現していいかわからないものだったから、きょう実際の香りを確かめることができる。
今からどんな香りなのか楽しみではあるけれど、それはさておき、キノコだけを採りに来たわけじゃない。
ついでに野草も摘んでおきたかったのだった。
屋敷にも乾燥させたハーブがあるにはある。なんだけど、ここで摘んでキノコと一緒に売れば小遣いくらいにはなる。
冬でも採れるのは、ワイルド・マージとセボラム、えーと、あとはマーセンスだったかな。どれも〈わたし〉の記憶にあるハーブとは違うから、どれがどういうハーブかはわからない。
ん? ワイルド・マージもセボラムもマーセンスも、基本的に放牧地で摘んでたような。ということはつまり、森では採れない……?
放牧地まで行かなくても、日当たりのいい山道でも採れる。
ただ、今から山道に行ってハーブを摘んで、それから市場で取引してから帰ると、わりと遅い時間になってしまう。冬は日が沈むのが早いし、微妙なところだ。
ここらで切り上げてまた今度でもいいんじゃないか。
そんなことを考えていたときだった。
「トーマ……?」
誰かがぼくを呼ぶ声が聞こえた。
女の子の声だった。
聞き覚えはあるけれど、リリーの声じゃない。
ゆっくりと声のほうを向くと、小柄な女の子と目が合った。
粗末な服。くすんだ栗色の髪。そばかすのあるあどけない顔。鳶色の瞳。
使い古された牧杖。
知ってる。
〈ぼく〉は彼女を知っている。
「——やっぱりトーマだ!」
彼女はぼくのほうへと駆け寄り、
「生きていたのね……!」
そして、ぼくの胸に飛び込んでくる。
マウシカとラクと、それから干し草の匂いがする。
懐かしい匂いだった。
ぼくは、彼女にぎゅっと抱き締められていた。
「もう死んじゃったと思ってた……会えないと思ってた……」
かすれた声で彼女は言う。
「ごめん」
ぼくは彼女にただ謝るしかできない。
「ごめん、アム」
彼女はアム——アムリーン——、牧畜の民、トゥレーディ族の娘で……そして……
〈ぼく〉の幼馴染だった。