「くるしいよ、アム」
「ご、ごめん……ありがとう。もうだいじょうぶ」
あわてたようにぼくから離れるアム。すっかり泣き腫らして赤い目をしている。
少しはずかしそうに、顔を背け、頬をかく。
「と、トーマが悪いんだからね」
「ごめん」
「……トーマが……悪いんだからね」
謝るぼくに、彼女は繰り返していう。さっきよりはすこし恨めしそうにして。
そして、こちらを向く。
「どうして、帰ってこなかったの?」
どう伝えたらいいものか。
いや、ひとつずつ、順を追って話すしかないだろう。
「……あの地揺れの後、ぼくは実のところ死んでてもおかしくなかったんだ」
アムは目で続きを促す。
「あの日、崩落に巻き込まれて、 崖を滑り落ちて……気付いたらぼくは男爵家の屋敷にいた。男爵のお嬢様に助けられたんだ」
「そう……それで助かったんだ」
「医者には死んでてもおかしくない、って言われたらしいんだけどね。まあ、それで怪我が治るまでしばらく男爵の屋敷のお世話になってて……えっと、今は屋敷で使用人として働いてる」
「怪我が治ったときに、顔くらい見せに来てくれてもよかったのに。それとも……わたしたちのことなんて、忘れちゃったの?」
「それは……ごめん」
「まあ、いいけどね」
仕方なさそうに彼女は笑う。
「アムは、どうしてここに?」
「他のみんなと、冬の食糧を採りに来てるの」
そういうと、アムは背中の籠をぼくに見せる。
籠の中に、真っ赤な果実と束ねられた香草が入っているのが見えた。
「そっか、もう冬だもんね」
冬がはじまれば、森は冬の味覚に満ちる。
春は春の、夏は夏の、秋には秋の楽しみがある。
ごく当たり前のことだけど、牧畜の民は、そのごく当たり前の自然の変化と一緒に暮らしている。牧畜の民は季節とともに生きているのだ。
真っ赤な果実は、アカアクシバの実——ルビーベリーだ。
とても酸っぱいけれど、ほのかに甘味がある。
そのまま食べるには酸味が強すぎるけど、火を通すと酸味がいくらか和らぐから、ジャムやソースにしたり、絞り汁をひと煮立ちさせて、ラクの醗酵乳に加えて飲んだりする。牧畜の民の冬の楽しみの一つだ。
香草のほうは、マーセンスかな。イチイに似た細長い葉が房になっている。
マーセンスはソーセージによく使う。肉の臭みを消して香りを与えるのとともに、肉が傷むのを抑える効果があると言われている。
冬は家畜のための餌が足りなくなるから、粗食に耐えるラクやマウシカと違って、たっぷり餌を食べるカモシシを養うだけの飼料を確保するのがむずかしい。そういうわけで、繁殖用を除いた残りのカモシシはソーセージやハムに加工される。
領内の村でも、カモシシを保存用に加工する作業がはじまっているだろう。
マーセンスをはじめとした香草類は、この時期になると重宝される。特に乾いていない、新鮮なもののほうが肉が長持ちするというので、こうして山野で摘んで市場に持っていけばよく売れる。
「トーマこそ、どうしてこんなところに?」
「ああ、それは、ほら」
さっき採ったクロユリタケをアムに見せる。
「クロユリタケ!? えっ、これをどこ——ううん、それは聞かないのがルールよね」
キノコの自生地は、秘伝だ。人に教えてはいけないし、人から聞いてもいけない。自分で見つけなければならない。それが牧畜の民の掟だ。
たぶん、乱獲でキノコが採れなくなるのを防ぐためだと思うけど、自分でキノコの自生地を見つけられるということは、それだけ森の植生を理解してるってことでもあるのかもしれない。
だから、ここにたくさん生えてるってことも、ぼくは教えるわけにはいかない。彼女が自分で気付かないかぎり。
目につくところのだいたいは採っちゃったから、見つけるのはちょっとむずかしいかもしれない。
「でも、そっか。クロユリタケを採りに来てたんだ」
「あとは香草を摘んだら帰るつもりだったんだけど……」
西の空を見ると、日が傾いてきているのに気付く。
「ここじゃ香草は採れないじゃない。山の方に行かないと」
「でも、今からだと遅くなっちゃうでしょう」
「そうよね……あ、そうだ」
アムは籠を下ろすと、腰に下げた袋からひとつ取って、そこにマーセンスの束と、ルビーベリーを入れていく。
「これ、あげる」
「え、でも」
「そのかわり」
アムの小さな指が示すのは、ぼくが採ってきたクロユリタケの入った籠だ。
「そっち」
「ああ、交換」
「採ってきたキノコをわけるのは、ルールを破ることはならないもんね」
得意げに言って笑う。
ぼくも籠からクロユリタケをいくつか袋に入れて、アムに差し出す。
「これで、おあいこ。ふふっ」
そうして、アムはおかしそうに笑って、
「どうしたの」
なにげなく聞いて、返ってくるのは震える声だ。
「なんだか、懐かしくて……うん、懐か、しく、って」
アムの瞳に、しずくが溜まっていく。
微笑んだままで、涙がこぼれる。
「泣かないで、アム」
「なんでだろ。うれしいのに……トーマに会えたのがうれしいのに……でも、胸がくるしくて」
ぎゅっと、牧杖を胸にかき抱く。
「その杖」
「これ……うん。そうだよ」
牧畜の民が持つ杖は、ひとつとして同じものがない。
杖に適した太くてまっすぐな枝を森で探して拾ってきて、枝や節があれば取り除いて作る。木の枝が完全にまっすぐということはないから、似たような形のものはあっても、どこか形が違う。
そして、自分が手に馴染むほど持ち続けた杖の形は、しっかりと覚えている。
「トーマの杖だよ」
ぼくの杖だ。
ぼくがずっと使っていた杖。
あの日、あの試練の間、ぼくが使っていた杖だ。
「地揺れで崩れた峠の下に、落ちてた杖を……わたしが見つけて……」
あの峠は、ここからそう遠くない場所にある。それはそうだろう。
伯爵領から男爵領への放牧路にある最後の峠なのだから。男爵領のある山のこちら側から一番近い峠。
伯爵領に集落を持つトゥレーディ族は、男爵領と伯爵領を行き来はするけれど、基本的には伯爵領の森で採集することが多い。
「それでトーマが、死んじゃったと思ってたけど……」
だから、彼女がここに来たのは……。
「生きてて、よかった。また会えて、よかった……」
ぼくを探しに来たんだと、思う。
たぶん、ぼくの亡骸を。
峠の下に、何があって、何がなかったのか、ぼくは知らない。
いつでも行けたのに。男爵の屋敷から、そう離れてはいない。そう離れていないから、リリーがぼくを見つけることができて、屋敷の人間がぼくを助けることができたのだ。だから、ぼくはいつだって、そこへ行くことができた。
ぼくは今もあの場所に行くのが怖い。自分が死に瀕した場所と向き合う勇気が、ぼくにはない。
アムが峠の下に、ぼくを探しに行って、杖を見つけて……それからどんな気持ちでアムが過ごしたのか。どんな気持ちで今日ここに来たのか、ぼくにはわからない。
ぼくが彼女に何をしてあげられるかも、ぼくにはわからない。
ぼくが彼女に何かをしてあげられるって思うのも、正しくないのかもしれない。
何も、わからなくて。
何もできず、ぼくはただ立ち尽くすだけだった。