紫の花に導かれるようにして進めば、道は次第に細くなり、道とは呼べぬようなところに至り、そして道なき道を行くことしばらく、私たちは辿り着く。
錆の匂いがする。朱くなった鉄が草の陰に見える。真っ直ぐに伸びる赤錆びた二本の鉄。線路だろうか。その下には朽ちた枕木が等間隔に並ぶ。
視線を上げて視界に入ったのは駅台だろう。文字が擦れてもう判別できない看板がある。駅舎はもはや風雨を凌ぐ役を果たさない。山奥の廃駅。晩秋の風が吹いて髪を攫おうとする。
そうか——。
「現実から取り残されてしまったのね」
誰に言うでもなく呟く。ざあ、と吹いた風に掻き消されてしまって、どこにも届くことはないだろう。傍らに立つメディはよく分からないといったふうに私を見たが、曖昧に微笑みを返すのみ。
現実に棄てられて幻想郷に取り込まれてしまったのか、それとも、幻想郷に取り込まれて現実から乖離してしまったのか。どちらにしても、孤独な場所だ。
その中で歪に賑やかな紫に香る花。天に向かって聳えるように咲き並ぶ。錆びた線路の先へ招いているように見える。だが、その先は果たして此方側か。
違うだろう。
「出たわね……」
むくりと起き上がる壊れた糸操人形。メディの身体が一瞬反射的に硬直するのが分かる。
「……っ」
「キギッ」
「気持ち悪いわね。別に会いたくなんてなかったわよ」
「アリス……?」
今はもうはっきりと木偶の言わんとすることが分かる。不思議そうに私を窺うメディは分かっていないのだろう。分からないのも無理はない。その純粋さゆえに。
「ギキキ、キ」
なるほど、取り込むつもりね。もちろんそう簡単に取り込まれてやる気などさらさらない。指を鳴らす。
「上海」
斜め後ろを飛ぶ人形に呼び掛け、
「蓬莱」
懐から一体の人形を出し、宙に放る。羽根が光を帯び、ふわりとその身を宙に浮かべる。
私の手前、左右に一対の人形。
そして私の傍ら、一歩退いて立つ朱襦人形を振り返り見、
「じゃあ、メディ。お願いね」
すっ、とゆっくり跳び退って後ろに附く。自然、メディが前に立つ形になる。
「……う、うん」
メディは頷き、呼応するように前へ一歩。自信なげな表情。が、すぐにそれは薄れる。その背中は『信じているから』と答えたように見えた。
対する紫苑人形は、ゆらりゆらりと左右に揺れながら、壊れ掛けの腕をだらりと垂らしたまま、紛い物の表情を作ってみせ、不愉快に歪んだ音を鳴らす。
「ギキ、ギキヰッ」
「……? いいわ、もっ……も、目的が何だかは知らないけれど、お、大人しく眠ってもらうわよ!」
挙動の読めない木偶を訝しげに見た後、少しだけ震える声で牽制。自らを鼓舞するつもりもあるのだろう。怖い。でも何とかしなくては。そんな気持ちが感じられて、私は胸を締め付けられる。
ところで……。
メディには分からないだろうけど、今あいつ……笑ってたわね。
間違いない。あれは笑みだ。それもあまり好ましくない意味合いの。歪んだ感情に由来するか。純化はある意味では歪曲とも言える。
目的は果てさて、人間への恨みを晴らすべく、というところか。でも可哀想だけれど、あれを棄てた人間は恐らくもう既にこの世にいないだろう。行き場を失った感情が向かう先は明るくない。
私が、潰してあげる。
懐に手を。小さな人形を両手に。木偶は戦いの気配を察したか、ゆらゆらと後ろへ。同時に匂い立つ紫の花々。
私は抱えた両手を広げるように、一気に人形たちを解き放つ。右の上海、左の蓬莱を両翼に展開。これで定位置。確かめるように辺りを見渡し、高らかに鬨の声を上げる!
「メディ、一気に行くわよ!」
「わ、分かったわアリス!」
一斉に人形たちから放たれる弾幕。それらを合図に、戦いの火蓋が切って落とされる!
飛び交う楔弾とともに宙へ駆け出すメディ。毒の霧を纏う。
木偶もまた狂乱、鳥兜は乱れ乱れて咲き乱れ、紫の毒を吹き上げる。
「また霧? まだ昼なのに……」
視界を遮られたメディが零す。いや、あれは霧ではない。恐らくは瘴気だろう。
もっとも、英吉利では霧も蒸気も瓦斯も全て霧だ。毒が溶け込んだ霧だろうと、毒成分が気化した蒸気だろうと、毒瓦斯だろうと、空想、幻想、妄想も憂鬱も全て、この言葉で一つになる。魔理沙の言う『吸うと痛いから一緒』という意見には賛成しかねるけれど、一緒であることには同意する。
つまり、この毒の正体がいかなるものであろうと関係ない。毒には違いないのだから。
メディが先行。人形たちの放った弾幕より早く飛び、そして毒の弾を撃ち出す。
ばら撒かれる粒弾。だが木偶は躱そうともしない。
突如として木偶の前に噴出する瘴気。まるで壁のようにメディの放った弾幕を遮る!
メディの毒は紫怨人形には効かない。紫苑人形もまた毒でできているから。毒人形に毒は効かない。でもそれはメディにとっても同じ。
木偶が撒き散らす瘴気をものともせず、紫に煙る怨みの気の中を突っ切っていく!
「キギッ……キギヰヰヰ」
「残念だったわね! わたしには毒なんて効かないんだから!」
予め抗毒剤を服用しても毒の侵蝕を完全に防ぐことのできない私や、もともと毒による腐蝕に弱い人形たちの代わりに、紫怨人形の懐に飛び込んでその注意を引き付ける。複雑な思考はできまい。その予想に反することなく、紫苑は朱襦に気を取られ、その背後への警戒が疎かになった。
飛び交う粒弾を毒霞が遮るも、メディの後方より続くように飛ぶ楔弾が毒の壁を貫くように木偶へと降り注ぐ!
「キヰヰヰ!」
咆哮。幾つかが木偶の躰を捉えたのだろう。
「ギ、ギキ、キヰヰヰヰ……」
憤怒の表情のつもりだろうか。糸操人形は目と口以外を動かすことができない。目をぎょろつかせながら、口は大きく開き、全身から噴き出すのはは激しい呪怨の情。
感情が暴走しつつある。これはどうしようもない。慰めようがないのだ。もはや行き場などないのだから。だからせめて、後を残すことなく。
メディが切り拓いた道を擦るように、私は少しずつ前へと進む。人形を取り出して掲げ、次々投げつける。
「伏せてて!」
無操の人形が木偶目掛けて飛来。刹那、爆散! 紫の靄が掻き消される。
離れていても瘴気の侵蝕は完全には防ぎ切れない。
指先が鈍ってきたか。定まらない照準では容易く躱される。
「キヰッ」
当たらなくても構わないのだけど。私は続けて人形を放つ。楔弾が飛ぶ。辺りを七色の光が染める。紫怨人形はじりじりと後ろへと退がっていく。もう霧も薄れてきた。
メディが防御し、私が攻める。これなら心配なく終わらせることができるだろう。
私は油断していたのだ。
「アリス、危ない!」
「え——」
唐突に背後から押し寄せる衝撃波。駄目だ、避けられない!
押し潰されるような感覚を背中に受けるのと、叩き付けけられるような感覚を顔面に受けるのと、そのどちらが早かったか。続けて、衝撃で吹き飛んだ勢いに身が地に引き摺られる。全身を襲う激痛。
「痛、——ぅう」
忘れていた。ここは相手の戦場なのだ。敵地にのこのことやってきておいて、無事に優位に立ち続けていられるわけがない。まして、そうして勝つことなどありえない。
地を転がり、駅台の端にぶつかって漸く止まる。苦痛を堪えつつも瞼を持ち上げ、私が先程までいた場所を見る。
なるほど。
巨大な鳥兜が生え、辺りに毒を撒き散らしている。地中から地表を食い破るようにして一気に突き出、そのとき噴き出した毒、恐らくはそれがあの衝撃波の正体だろう。根元の地面が破裂したように抉れている。
霧が薄れていたのは人形たちの弾幕に押し切られたからではない。撒布を一時的に中断することで地中に溜め留め、圧縮。それを一気に炸裂させたのだ。その為に一旦攻撃の手を緩め、防戦に徹底するなんて。
いや、ありえないことではない。私が迂闊だっただけなのだ。
「アリス!」
メディが心配そうに私の方へ駆け寄ってくる。離れていた上海と蓬莱はメディに続くように私の許へ。不安に駆られてひどく憔悴した表情。
私は大丈夫だというように答えてみせる。が。
「大丈夫よ、メディ……」
まるで私の声が届いていないかのように、わなわなと唇を震わせ、顔は悲痛に歪み、おぼつかない所作で私の身体に触れようとし、そこで初めて気付いたかのように突然背後を振り返り見、紫怨の人形を見、見つめ、見据え、そして睨めつける!
いけない。
生まれてからまだそれほど経っていない妖怪のメディは、おそらくまだ自身の力や感情を制御できていない。あるいは強烈な感情を抱くことさえもあまりなかったのではないか。
「あ、アリス、あり、ス……」
暴走。その言葉が脳裏を過ぎった瞬間だった。
「うわあああああああああ!!」
廃駅に響き渡る悲痛な叫び。同時に発散される強烈な毒気。朱い朱い毒。まるで鈴蘭の実が熟れて膨らみすぎ、破裂したかのような。
「よくも、よくもアリスを!」
「メディ、駄目よ! 落ち着きなさい!」
だが、私の声は届かない。狂乱し、紫苑人形目掛けて毒の雨を降り注ぐ。効きはしまい。あれは毒そのものだ。むしろ毒を吸い上げて強大になるやもしれぬ。
「上海、ほうらっ……つぅ」
呼び掛けようとしたが、痛みに妨げられてままならない。が、それで理解してくれたのだろう。勢いよく空を滑り出す。向かう先はメディ。
言葉ならぬ言葉で叫びながら、周囲に毒を撒き散らす。上海も蓬莱もある程度の耐毒処理は済ませておいてある。それでもこの毒は多分に強すぎる。
紫の木偶は辺りから鳥兜の毒を集め始めたか。さっきは分からなかった気配が今なら分かる。怨念が動くのだ。しかし……それにしたってこれはあまりに大きすぎる。
「ギキヰヰヰ——」
紫怨の木偶が北叟笑んだように見えた。
……まさか。
いや、そんな筈は。でも……。逡巡。無為だ。答えならもう分かっている。でも認めたくない。認められない。
もし私の予想が当たるとするならば、この人形、その辺りにいる妖怪なんかとは比べものにならないほど危険な存在ということになる。
いえ。今はそれどころじゃない。私の個人的な感情はこの際捨て置く。メディが危ない。
「メディ、逃げて! しゃんは……っ、ぅく……上海、蓬莱!」
上海と蓬莱、一対の人形がメディの許へ。狂乱し振り回されるその袖を掴み引く。
「……っ?」
そこで初めて自身が気を違えていたことに気付いたか。
「あなた、アリスの……?」
私の方を振り返り見る。もう身を起こし、駅台に寄り掛かるように何とか立つ私の姿を見て、慌ててこちらへと戻ろうとする。
が。
「駄目! 罠よ!」
一気に膨れ上がるのは廃駅を包む感情の渦。憤り、怨み、無念、無情。
私の予想は外れていなかった。
それは一点、木偶の足元に集中。木偶が足元の地を腕で叩きつけるや否や、線路の鉄を捻じ曲げながら地が隆起。地裂に呑み込まれながらも、木偶は両手をだらりと地に垂らして、なおも瘴気を噴き出させる。そうして地を突き破り木偶を呑み込みながら這い出でたのは人の形を象った紫の塊。人と言うにはあまりに巨大すぎるそれは、悠然と腕を振り上げ、ちっぽけな朱襦目掛け勢いよく。
「え?」
振り下ろす!
巻き起こるのは空震。上海と蓬莱が強く引っ張って直撃こそ免れるも、続いて届く衝撃波までは避けられない!
「メディ!」
「っ、ぁ——」
背後への急襲。華奢な身体は軽々と吹き飛ばされる! 悲痛に目を見開き、口からは乾いた呼気が漏れる。放物線を描き、三体の人形が飛来。軋む身体に鞭打ち、私は落下点へ急ぐ。お願い、間に合って!
次第に大きくなる影。両手を差し伸ばす。
「ッ」
伝わる重み。まるで地面に強い引力が生まれたよう。膝が折れそうになるのを堪え、しっかりと受け止める。
衝撃で気を失ったのだろうか。私のときより威力が高いのかもしれない。
そっと地面に寝かせる。静かに呻いたけれど、そのままにしておく。
「ぅう……」
休んでいて。後は、私が何とかする。そう語りかけるように微笑み、
「上海。メディを頼むわね。蓬莱」
一転、表情を引き締める。
「力を貸してね」
頷く蓬莱人形を携え、一歩。見上げるのは紫の巨人。
まずは現在の状況を再確認。私がばら撒いた置操の人形たちの位置はどうか。うん、問題はない。とはいえ紫怨の糸操人形がどこにいても大丈夫なようにはしてある。
巨木偶に一番近いところにあった人形の一体に再度魔力を封入、剣を構えさせ、突撃!
「ギキッ、ギキキキッ1」
何の手応えもなく擦抜ける
「そんなもの効かないって? なるほど、多分実体はないわね。幻影かしら」
あとは瘴気が本当に鳥兜由来かどうかだけれど……これは疑う余地がない。何故なら、そうでないならば鳥兜の近くで戦う意味がないからだ。わざわざこんな僻地に誘い込むような真似をしたということは、手がそれしかないと自分でい言っているも同然だ。
「さて」
始めよう。これで本当に終わらせる為に。全ての驕りと油断を捨て去り、私は書を開く。
魔力を高める。身動きせぬ私に巨木偶がのそりと歩み寄る。そうだ。もっとこちらに来ればいい。草葉の陰の人形たちに魔力を封入。静かに私は布陣を整える。弾幕遊びでは禁じ手とされるだろう。でも、これは遊びじゃない。血戦だ。
「キキッ、ギキキヰッ」
「大人しくしてるのは別に取り込まれたいからじゃないわ」
懐に右手を。掴むのは人形。この為に拵えた特製の一体。
「終わらせる為よ!」
さぁ、詰みまでの廿四手。その一手を打つ!
初手。取り出したのは倫敦人形。胸の前に掲げ、魔力を集中。押し出すように解き放つ。人形から吐き出されるは霧。無色透明だが、ただの霧ではない。強烈な刺激臭を放ちながら拡がっていく。
「キ……?」
「毒なら効かない? 無駄なことを? さて、どうかしらね」
弐手。いつの間にか紫怨の巨人を取り囲んでいた人形たちがゆっくりと起き上がり、楔弾を撒布。人型の靄の中で蠢く影が見える。最小の動きだけで器用に楔弾を躱していく。当たったら不都合があると言っているも同然。なるほど、あれが本体ね。
参手。再度懐に手を入れ、掴むなり素早く人形を投げる。
続けるように四手、伍手、六手、と人形を放る。合わせて四体の無操の人形。紫に煙る巨躯目掛け放物線を為す。当てるのが目的じゃない。指を鳴らし、虚空で爆発! 臭気が爆散する。道を拓く。
七手、八手、九手。巨木偶の足元を目指し低空飛行しながら、更に三体の人形を取り出す。取り出した人形を後方に投げ放つ。続けて放って並べ、後方から粒弾を一直線に投射。
この辺りの臭気は先程飛ばしておいたとは言え、まだ幾分残っているのだろう。鼻腔を刺すような痛みがある。
拾手。木偶の反撃が来る頃合いだろう。思ったとおり、その巨腕を振り被って私を叩き潰さんとする! が、分かりきっている。素早く横に跳躍、まさに眼前に振り下ろされる腕を已のところで躱す。そしてこれも恐らくは牽制だろう。
拾弌手。振り下ろされた腕目掛け無操の人形を投げつける。着弾、爆火。
「ギキッ……?」
「どう? 痛いでしょう?」
爆風を浴びた箇所から紫の靄が剥がれ落ちるように消えてゆく。同時に臭気も薄れ、無色透明な水滴となって弾ける。
「でも、まだまだよ。貴方は少しお徒が過ぎる」
拾弐手。背後からの急襲に備え、素早く振り返り、後退。地中から突如として伸びる紫の柱。紫の衝撃波を伴なうそれは鳥兜だ。躱しきれず、波の先端が腹を殴打する。
「ぐっ……まだまだ!」
続けて紫煙を吐こうとするが、そうはさせない。懐に差し入れた手から操創の人形を放つ。眼前で咲き乱れんとする紫怨の花の前で静止、直後、急旋回。構えられた剣が葉を、茎を、花を斬り裂いていく!
拾参手。これだけでは済まさない。私は続けて操創の人形を繰り出していく。辺りに咲く急成長した鳥兜を次々に薙いでいく小さな大軍隊。
「キギッ——!」
「あら。何度も同じ手を食う私じゃないわよ。それに、どうせやるのだったらもっと力を溜めておかなきゃ駄目ね。これじゃ当たっても致命傷ではないわ」
拾四手。軽快に嘲笑。挑発。
易々と乗った木偶は身を屈め、横殴りにせんと腕を振るう!
拾伍手。ここが肝要だ。高く跳躍。足元を見れば今まさに豪風を伴ないながら腕が通り過ぎていくところだった。足裏から強い衝撃が伝わる。急激に上方へと引っ張られるような感覚。内臓が潰れるような錯覚を覚える。
「うくっ……でも、まだ!」
当たっていたならばこれで済みはしまい。直撃などさせないけれどね。
私は宙で符を翳す。宣言など不要だが、こちらの方が魔力を籠めやすい。光が溢れ、足元に魔法陣が展開。私自身もまた白い光に包まれる。宙へと舞い上がる光の粒子。蛍火の中、私は唱える。
「歌えよ作られし生命」
懐に手を差し入れて幾多もの人形を強く掴み。
「声高く」
足は宙を強く蹴るように更に高く飛び。
「天高く」
宙に浮かんで私は叫び、掴んだ人形を解き放つ。
「斉唱——!」
一斉に放たれる無操の人形。巨木偶の足元目掛け、弧を描きながら飛んでいく。
刹那、閃光。続け様に轟く爆音。重なり合って響き合うは物言わぬ聖歌隊の霊歌。紫怨の靄は辺りの臭気を吸いながら白く焼けていく。
「ギ、ギヰヰ!」
苦痛に呻く紫怨の巨人。
拾六手。なおも私は続ける。
「作られし生命捧ぐ祭壇」
豪腕の薙ぎ払われた大地に、緩やかに降り立つ。
「歌捧ぐは御神が為」
厳かに唱えて人形を掲げる。
贄捧ぐもまた然り」
勢いよく、巨躯の中心目掛けて。
「今屠さん!」
投げ放つ!
高速で飛びゆく一体の無操の人形。空を薙ぎ、靄を貫き、一直線に飛んで往く。
——巨躯の中心を捉えた!
一際大きな爆光。世界を瞬時に白に染め上げる。捧げられたのは主の御子なる一体。巨人の身体の大部分を巻き込みながら原初の形へと戻っていく。
「人形は人形のままでは可塑性しか持たない。帰らざる魂にはなりえない。いくら霊が取り込もうと、彼岸へ往けない。だから、私がこうして来た。
さあ、その子を解放してあげて」
「キヰッ、ギギキヰ……!」
動揺。中にある人形の心が呼応したのか。紫怨の霧が揺らぐ。人の魂と人形の魂は別だ。融け合ったりはしない。人間同士でさえも融け合うことなどないのに。他を取り込んだとて、意志を違えれば、こんな脆い結合など容易く解かれる。
拾七手。私は符を翳す。が。
「ギキキヰヰヰヰッ!」
予測しない一撃。なりふり構わず繰り出されたのは頭突き。まさか後ろに仰け反った反動を利用するとは。反応しきれず、私は直打をもらってしまう。
「——ッッッ!!」
激痛。景色が明滅。直後、無音。同時に何も見えなくなる。
記憶の空白。
突如、漆黒の視界に電気が走る。
「……っ」
意識が飛んでいたようだ。急激に戻る感覚。上手く呼吸ができない。胸部に激痛。ここに直撃したか。よく無事でいられた。自分の生まれに感謝する。気付くと背中にも痛みがあった。どうやらまた駅台の端に身体を打ちつけたらしい。尽く尽く縁がある。ぼろぼろの身体を無理矢理に起こす。
だいぶ収まってきた。痛覚が一瞬のうちにこれほどの情報量を送受信できるのかと思うほどの痛みだった。もちろん、喰らった瞬間にはそんなことを思う余裕すらない。
放ち損なった符を再度掲げる。魔法の空間を展開。この後に続く手の為の下準備。
魔力を高めながら人形を取り出す。これは拾八手、拾九手に連なる一手。一体一体と後方に人形を展開。三体並んで楔弾を投射。身を守る弾幕。直接的な打撃はもうこれ以上受けられない。私の身体もそう長くは戦いを続けられないだろう。
紫の巨体はもう半ば以上が削れ、朽ちている。
廿手。弾幕を纏いながら接近、核たる木偶の至近に取り付き、剣を抱えた人形を投げ放つ。直接の攻撃は考えていなかったか、避けきれず創傷が刻まれる。反撃はさせない。すかさず跳躍し後退。
廿弌手。靄に阻まれたか、先程の斬撃はあまり大した傷には至らない。が、感触は掴めた。全てが全てではないけれど、概ね予定通りに手は打てているようだ。特製の人形を再度掲げ、霧の撒布。
廿弐手。これで全ての壁を剥がす。符を翳し、唱えよう。
静かに厳かに紡ぐのは言霊。
「青い青い水の原型から」
附子毒は塩基加水分解で無毒にできる。塩基質と加熱されることで脱乍疏琉化及び脱仝疏琉化を起こし、無毒な附子末へと変成する。
「藍い藍い夜の中で」
霧の正体は鼎水窒とそれを含んだ靄だ。鼎水窒をたっぷりと溶け込ませた靄は弱塩基性を示し、附子毒の加水分解を促す筈。中和できない毒はない。
「蒼い蒼い開闢の光」
空気との混合瓦斯は火気により容易に爆発する。無操の人形が激しく爆火したのはこの為だ。普段よりも威力を抑え目にしておいてちょうどよかった。下手を打てば私も爆発に巻き込まれかねない。
「此方から彼方まで」
懐からは一体の人形。無操の人形の一体だ。だが、他の人形に比べその容貌は余りに生気に欠けている。まるで死人を人形にしたかのような歪さ。
結合を失った毒は互いに乖離し、無毒となる。此岸と彼岸もまた然り。川によって隔てられているからこそ均衡を保ちえる。
あるべきものはあるべき場所へ。
あるべきものはあるべき姿へ。
高々と無生物人形を掲げる。
「——塵は塵に」
回帰せよ。
一直線に投射。勢いよく飛んで往く。その先は紫の壁。
着弾。溢れる閃光。響く轟音。世界が音と光、それらのみに支配される。光が集束。青白く輝く光球となり、直後、一気に炸裂する。
幾つもの小爆発を偶発しながら、木偶の核を守るがごとき紫怨の巨躯を包み込むのは蒼い恒星。青白く輝く様は宇宙の誕生を思わせた。それは原始への回帰。
紫の靄は全て霧散した。辺りにはもはや瘴気は残っていない。後は本体を残すのみ。
木偶に繋がれた操り棒も崩れ朽ち、繋いでいた糸も切れてしまっている。まるで、この世界との繋がりを暗示するように思えた。でも、まだ終わっていない。
廿参手。完成の為の最後の下準備。魔法陣を展開する。中心は紫怨人形。取り囲むは周囲に配置した文楽人形たち。双掌を掲げ、一斉に光を宿す。
「さぁ、っ、乙女、文楽の始まり、よっ」
斉射。幾条もの閃光が弾ける!
縛鎖が如く絡まり合い、壊れかけの木偶を繋ぎ止め、地に封ずる。これでもう、動けない。
廿四手。蓬莱人形を胸の前に。
「これで、はっ、止め、よっ————!!」
紡ぎ出される光球。七色の光を取り込み、混ざり合い、眩き白へ。白光が集束、光の粒子が宙を舞う。辺りを青白い光が包んでいく。
放つ。
一閃。か細い光が一筋、木偶の中心を貫く。刹那後、それは遽として膨れ上がる。巨なる光の帯となり、そして光塊となり、ついには視界全てを白く染め上げる。
極光。
黒い魔法使いのそれを彷彿とさせる極大の閃光。
それは確実に木偶の身体を捉え、包み込む。守るべき壁なき今、躱すべき隙間なき今、もはや逃れる術はない。
「ギ、ギキキキキヰヰヰヰヰヰヰヰ——!」
断末魔。閃光の中、次第に小さくなりゆく影。
「典雅なる死ありき、か」
焦げ落ち往く人形を見、誰に言うでもなく、そっと呟く。
やがて白光に呑み込まれるように、とうとう紫怨は弊えた。