「うわぁ……」
第一声は感嘆。次いで表情は陶然。自然、頬が綻ぶ。まだ目の前に差し出しただけだ。
人形に命じ、紅茶壺から紅茶碗にお茶を入れる。立ち上る甘い甘い香り。甘さの中に漂う爽やかさ。まあ確かにこれを前にして仏頂面でいられるとしたらそれこそ異常だ、と言ったら自惚れになるかしら? でも、これは疑問ではなく反語。だって評価するのは自分なのだから!
あは、なんて楽しいのだろう。
とても気分が昂揚している。自分でもよく分かる。顔なんてさっきからにやけっぱなしで、頬だってずっと綻びっぱなし。全く人のことを言えたものではない。でも、そんなのどうだってよくて、こうして破顔していられるというのは、本当に平和で本当に幸福である、その証明なのだから。
「さ、召し上がれ」
「とってもおいしそう……」
うっとりと目の前に並んだお茶とお菓子の見つめるメディ。ああ、なんて可愛らしいのだろう! って、いけないいけない。落ち着きなさいアリス。
「おいしそうじゃなくて本当においしいんだから」
促すと、おずおずと餔叉で包粢を一口大に切り取って、それをやはりそっと、小さな口へと運ぶ。
「!」
口に含んだ瞬間、目をぱちくりとさせるメディ。あ、あれ? 何かまずかっただろうか。
唐突に押し寄せる不安。そんな私に構うことなく彼女は素早く紅茶茶碗を手に取り、口につけ、ゆっくり傾け……そしてそのあえかな喉に下す。
一呼吸。どこか難しそうな顔をし、そして一言。
「アリスの嘘吐き!」
「え?」
血の気が引いた。え、そんな、まさか。まず困惑。予想だにしていたなかった展開に頭がついていけていないのだ。そして漸く思考が追い附く頃には硬直。時が止まったのかとさえ錯角した。それくらい急激に心が冷え……、
すぐにメディが続きを紡いだ。
「これ、おいしいんじゃなくて……すごくおいしいわ!」
一転、彼女に浮かび上がったのは弾けるような笑み。
「……ぷっ」
途端、力が抜けた。気も抜けた。一瞬で緊張と不安もどこかへ吹き飛んでしまった。それで、思わず吹き出してしまっ……というより、しまった。これはまずいわ。
抑え切れそうもない!
「あはっ、あははははは、あははっ……あははははっ!」
私はお腹を抱え、柔椅子に倒れ込んで転げ回る。
笑いが止まらない。だって、可笑しくて可笑しくて。
「もう、アリスったら、可笑しいの。そんなに笑ったらわたしまで、やだ、くふっ、ふふふふふ……あははははは!」
二人して笑い転げ。抱腹絶倒とは本当によく言ったものだ。あまりの可笑しさに絶えて倒れるのだから。
しばらくそうした後、漸く落ち着いてきた。まだ息が少し苦しい。腹筋も少し疲れてしまった。それにしてもこんなに笑ったのはいつ以来だろう。
「ああ、苦しかったわ」
「本当よ、もう」
咎めるような台詞でも、口調には全くそのつもりが感じられない。
「いけない。折角のお茶が冷めてしまうわ」
幸せそうに笑みを浮かべるメディ。私もまた胸一杯に幸福感を抱いている。楽しくて仕様がない。嬉しくて仕様がない。世界中から正の感情を集めたらきっとこんな感じなのだ、と少し大袈裟に表現したくなるくらい、楽しくて嬉しくて幸せなのだ。
この日。
明言こそしなかったものの、どうやら私はメディと友達になれたらしい。
べ、別に、食べ物で釣ったとか、そういうんじゃないんだからね。
……冷めたお茶は、やはり渋くなってしまっていた。
以来、私とメディはそれなりに親密に話したりするようになった。
私からは、例えば人形の話だったり、魔法の話だったり、幻想郷の住人についてだったり、それはもう色々なのだけど、彼女は特に人形の話に興味を持つだろうと思ったら、どの話もとても興味深そうに聞いてくれた。もちろん、人形の話には特別関心を抱いているような感じはあるのだけど。
一方、彼女からはどんな話を聞いたかというと。
「メディは人形なのよね?」
いつだったか鈴蘭畑まで彼女を送る途中の山道でそう尋ねてみた。予てよりずっと訊きたかったことだ。
「え? うん、そうよ。私は人形」
もちろん人形なのは分かっている。私は人形遣いだ。どれだけ精巧であろうと、どれだけ人間らしく振る舞っていようと、目の前の少女が人形であることは間違いないと確信している。
「その、ね。自律している人形は初めて見たから。意志を持っている人形もね」
「作ったことはないの?」
「作ろうとしたことなら」
「作れなかった?」
視線を落とす。目の端に鮮やかな紫があった。緑の中に聳える紫色の柱。花だ。少し変わった形をしている。茎から下方に向かって咲いているのだ。何の花だろうか分からないけれど、山草らしい自然味のある色だ。一歩ずつ冬に近付きゆく季節の中で、寒さに耐えんと咲き誇るその姿は、私にほんの少しだけ元気を与えた。顔を上げ、遠くを見つめる。日が傾いてきている。山の日没は早い。
呟くように答える。
「……ええ、そうよ。何度も試したのだけれどね。未だに作れていないわ」
何度も試したどころではない。あらゆる本を読み、あらゆる素材を集め、あらゆる条件、あらゆる状況下での実験を繰り返し、それらをまとめ、分析し、情報を蓄積し、それでもなお未だ到達することのできないもの。それでこそ打ち込み甲斐があるとも言えるのだけど。
「人形に魂をこめるところまでは、何とかできたわ。でも、一時的にしか魂を繋ぎ留めておけないということと、魂だけあっても動作の制御は魔法の力に頼らざるをえず、結局私が魔法をかけ続けなきゃいけないっていう問題があってね」
……実のところ、最近は行き詰まりを感じていたのだ。いくら本を読んでも構想は得られない。いくら素材を取り揃えても魂を上手く定着させられない。いくら実験を重ねても新しい情報は得られない。
唯一の進展と言えば。
「お陰で簡単な思考制御くらいはできるようになったのだけれど」
傍らの上海人形を見遣る。視線を送るときょとんと小首を傾げる。
これだけだ。複雑な内容だったり曖昧で感覚的だったりするものはまだ理解できない。
もちろんそれでも成果には違いないし、一切の反応を返せなかった頃に比べれば大きな前進だ。それは分かってはいるのだけれど……。
多分に焦っているのだろう、私は。だから、こんなことを尋ねたのだろう。
「メディはどうして自分で動けるようになったのかしら?」
……って多分『気付いたら動けるようになってた』とかだろうとは思うのだけど、一応念の為に、だ。思いつきというよりもはや自棄だった。
「……んー。鈴蘭の毒のお陰、かしら。いつ頃から動けるようになったかはあんまり覚えていないわ。気付いたら動けるようになってたの」
「え?」
だから、予想しない返答に思わず間の抜けた声を上げてしまう。いや、最後の方は確かに予想通りだったのだけど、そうではなく、初めの方だ。何だか途轍もなく物凄いことを聞いたような気がする。
ところがメディはそんな私の動揺を余所にさもそれが当然であるかのようにごくごくさらりと続けて言う。
「人形が動けないのはそれがただの器だからだわ。考えることだけできても、その命令を伝えるための手段がないの」
なるほど……器、ね。魂の容れ物。そういう意味では私たちの躰でさえ器に過ぎないのだけれど、今この幻想郷にいる上では関係ないことだろう。
しかしおそらくそれは核心を衝いている。
「だから、アリスは魔法でそれを補おうとしたのよね?」
私は黙って頷く。
言われてみれば私は器に魂を定着させることばかりを考えていた。だが、いくら器に魂を入れたところで、それは器だ。考えることはできても身を動かすことができないのは当然と言えた。
「身体を動かす命令を伝えるものが何だか分かる?」
「意志?」
やんわり頭を振る。
「毒よ。ほんの少しの、ね。例えばそれは『痛み』みたいな刺激だったり、『お腹が空いた』みたいな内側からの信号とは、そういうのは全部、言ってみれば毒なの」
「……なるほど」
身体の中で分泌される物質。言ってみればそれは確かに毒みたいなものだ。
「だから、毒が多すぎれば命令が溢れて躰は暴走してしまうし、逆に」
「毒がなければ命令を伝えることはできず、躰は動かせない?」
受けて続けた私の言葉に静かに頷く。
頭の中ではいつも無数の物質が分泌され続けている、と以前本で読んだことがある。信号を伝えるために作り出されるそれは、適正の量が保たれているときには身体は正常に働くが、適正の量を超えてしまうと有毒で機能を破壊してしまう恐れがあるし、適正の量に満たない場合には正しく機能せず、結果器官に障害をもたらす、と。薬も過剰に摂取すれば毒になるのと似ているのかもしれない。いや、メディの言葉の通りならば薬と毒は同じものなのだろう。
「そう。だからつまりね、躰は毒でできているとも言えるのよ」
「毒、かぁ……」
つまりこういうことだ。彼女は長い間毒の中にいたから、人形が躰を宿し、動けるようになった、と。それは即ち、人形を毒で満たし、その人形が躰を為すことができたなら、自らの意志で自律して動くことのできる人形が作れる、ということになる。
……決断するにはまだ早い。考えをまとめる必要がある。
家に帰ったら整理してみようかな、などと。
そう考えた矢先だった。
「──っ!」
背筋を冷たいものが突き刺すような、えもいわれぬ嫌悪感。身体のありとあらゆる部位が拒否を示す。急激に身体が冷えていく。嫌な汗が背中を伝う。震えが収まらない。足が止まる。前へ踏み出すことができない。
身体の中を駆け回る不安に促されるように、前を歩くメディの方を向く。山の端に沈み往く夕陽が逆光になって、朱色の輪廓を纏った黒い影。
私がいつの間にか足を止めていたことに気付いて振り返り見た彼女と視線が合う。彼女は不思議そうに私を呼んだ。
「アリス?」
彼女は、気付いていなかった。
「メディ、逃げて!」
そして不安は膨れ上がり、的中した。的中したときには遅かった。
思えば、道を歩いているときに気付くべきだったのだ。
周囲を包み込むように次第に膨れ上がっていく気配。私は辺りを見回し、そこでやっと思い至った。
紫の野花。気付けば辺りの至るところにそれは咲いていた。日が沈んで空気が冷え込んだことで、辺りに霧が漂い始めた。ただの霧ではない。毒だ。それもかなり濃密な。これではまるで瘴気だ。思い出したくもないが皮肉にも私はこれとよく似た感角を覚えている。
「え? な、何よこれっ──!」
「毒、よ……。貴方のとはまた違った、ね……っく……」
まずい。気付くのが遅れた所為か随分と毒の回りがいい。
「アリス!」
メディが駆け寄って来る。私は蹲って、身体の震えを抑えようとした。が、あまり効果はない。
「だい、じょうぶよ。へいき」
呂律も怪しくなってきた。これは相当にまずい。
「それより、はやく逃げ、て。私は、だいじょう、ぶ、だから……!」
気を強く持とうとする。まだ、大丈夫だ。末端を動かすのは少し厳しいけれど、全く動かないわけじゃない。まだ舌も鈍ってきているだけで喋ることはできている。ゆっくりなら、ではあるけれど。強がりだ。でもそれでも構わないから私に力を。
……うん。いける。
「上海、ちょっと力、借り、るわよ」
こく、と傍らの人形が頷く。
「来るなら、来なさい。そこにいるのは、分かって、るのよ……っ!」
「え?」
メディが不思議そうな顔をする。そうか、彼女には分からないのか。普段毒に囲まれて生活しているから、この異質な気配に気付かないのだ。
突如、気が膨れ上がった。辺りから紫の霧が激しく吹き出す! すぐさま拡がり、一帯を包み込む。月明かりに照らされ、薄紫に煙る。
霧の奥に影。人の形をしている。
だがそれは人ではありえないだろう。
余りに小さい。そして何より、動きが歪すぎる。人間はあんなふうに歩いたりしない。あんな、腕をだらりと垂らして左右に揺れながら歩いたりはしない。これではまるで墓場の土底から這い上がって来た死人のようではないか。
「ギギキグヰギキキ……」
耳障りな音。
声、だろうか。残念ながら私は日本語の他には幾つかの西方語が分かるくらいなので意味は計りかねる。情報のやり取りができない以上、交渉は無意味だ。元よりそんなつもりはないけれど。
懐から人形を掴むと、人型目掛けて素早く放り投げる。放り投げたつもりだった。
不意にぐらりと視界が揺れる。足元が見えた。左足がふらついて、地を踏み締め損なったのか。これでは軌道が逸れてしまう。
外した。好ましくはないが、当たらないだろうとは思っていた。問題はない。当たればいいと期待してはいたけれど。
人形が地に接するや否や、視界が白に染まる。直後、轟音とともに霧が爆散。
歪な人影はまるで吹き飛ばされるようにゆらりと身を逸らし爆風を逃れた。霧の陰で跳ねるのは爆風で巻き上げられた土塊か。平衡を崩していないあたり、全く堪えていないのだろう。構わず続けて人形を放り投げる。やはり照準は定まらず、的を捉えることはできない。
「ギキッ……」
閃光。轟音。
耳がおかしくなりそうだ。だが、一方で視界は晴れていく。霧が爆風に掻き消されていく。毒を流しながら、だ。
「メディ、逃げ、るわよ、っ!」
辛うじて回る程度の呂律。それでも無理矢理に声にしてやる。何としてでも、逃げる。
いや、逃げるだけならもう後少し凌ぐだけでいい。だが、一刻も早く逃げなければいけない。凌いでいる時間などない。
メディにあれの正体を見せるわけにはいかないから。
そう思ったのだけれど、遅かった。
「な、に……あれ……」
乾いた音。微弱な振動が靴底から伝わる。思わず目を向けると、メディが地面の上にへたり込んでいた。その双眸は見開かれ、先には歪な、歪な——、
「ギキ、キ……」
壊れた人形。服はおろか髪さえない。作り掛けで廃棄されたのか。露出した木肌は長きに渡って風雨に晒されたのであろう、ところどころが腐蝕を始めている。。よく見ると糸のようなものがついている。その先には木の棒。ずるずると引き摺りながら歩み寄ってくる。
糸操人形だ。妙な動きで想像はついていた。爆発の度に跳ねる黒い影、あれは土塊ばかりではなくて糸で繋がれた木の棒もあった。引っ張られるような軌道と交差した独特な形を人形遣いの私が見逃すはずがない。あの爆風の中でも切れないのは丈夫だからではなくて何らかの力が宿っているからか。
彼女は多分、人形が暴走するところを見たことがないのだろう。
「あれ、が、人形……?」
私は思わず舌打ちしていた。こうなることは充分考えられた筈だ。霧が拡散すれば視認性が上がることも分かっていた。それでも私が敢えて無操の人形を放ったのは、毒の拡散の為。
指先に力が戻ってきた。高濃度の毒霧から解放されれば、後はあれ以来日常的に服用している抗毒薬で対処できる。じわり、じわりと徐々に身体の感覚が戻ってくるのが分かる。
地を蹴ってみる。身体が跳ねた。
動ける。考えるより早く、口が、喉が、勝手に声を搾り出す。
「メディ!」
呂律も整ってきた。叫び、飛び出した勢いで素早く駆け寄る。
「ああ、あああ……いや、いやよ……何なの、あれ……いやぁ……」
呆然と、うわ言のように呟くメディ。焦点は定まらず、虚空を見ている。まずい。思っていたよりも衝撃が強かった。
「ごめんなさい」
そっと静かに詫びて、私はメディを抱えるようにして後ろへ飛び退る。
寸前まで私とメディがいた位置には濃紫の霧。爆風で散ったのはあくまで一時的なものに過ぎない。依然吹き出されつづける霧はすぐに収束し、再び辺りを包み込もうとしている。
「もう毒は喰らわないわよ!」
抱えるのとは逆の手で人形を放る。利き腕ではないから上手く制御できないけれど、今の私にとってはそれほど問題ではない。
人形はその場で剣を翳して急旋回。空を切る。風が生まれる。爆風ほどの効果はないが、空気の壁を作ることが狙いだ。後退しつつ、更に人形たちを展開。霧の侵蝕を防ぐ。それに……。
「ギ、キキ……キ……」
木偶の動きが止まる。糸が巻き込まれるのを嫌ったか。
おのれとばかりに口惜しそうに金切り声を上げる。
……いや。実際にそう言っているのだろう。言葉など分からずとも意味は伝わるものだ。言葉と意味の対応など形式に過ぎないのだから。私は分からない振りをしていただけなのだ。聞きたくなかったから。あまりに心に痛かったから。
人形はそれ以上寄って来ない。あの剣で糸を切れるかどうかは知らないけれど、絡まったりして身動きを阻害する程度にはなるのだろう。そして、それくらいの思考はできるということも分かった。ただ暴れているだけではないとなると、少し厄介だけれど。
次々と剣を振るい木偶を阻む人形十字軍。敗走の殿を担うとは何とも皮肉だ。
鈴蘭の丘に背を向け、逃げる。このまま放っておくわけにはいかないけれど、この子をこのままにしておいてどうにかしようとは、私には思えなかった。
霧の中浮かび上がる洋館。紅魔の住み処。
そこに着く頃には私はもはや満身創痍だった。相当強い毒だったらしい。思った以上に躰は蝕まれていたということか。抗毒薬の効き目が切れてきたことも関係があるかもしれない。そもそも薬など毒をそれより強い毒で抑えているだけだ。根本的な解決にはならない。
メディは背中に負ぶっている。衝撃のあまり意識を失ったのだろう。今は落ち着き、眠っている。寝息をしているところを見ると、失神は一時的なもので深刻な打撃は受けていないようだ。
面倒なことに門番がいた。
「図書館に入らせてもらうわよ」
許可を待たずに中へ。
「ちょ、ちょっと待ってよ。勝手に入ったら叱られるわ! 私が! ってどうしたのよ、その身体」
門番などこの際構っていられない。
「文句なら後で聞くわ。それじゃ」
「ま、待ちなさいってば!」
「で。貴方も勝手に上がり込むのね」
図書館の主は私の姿を見るなり不平を言う。貴方もというのは、誰か他に勝手に上がり込む輩がいるということだ。もちろん言うまでもない。
「文句なら後で聞くわ。寝台を貸してもらうわよ……けほっ」
埃っぽい。
「何でそんな身体でこんなところに来るのかしら……」
言われてみればそうなのだけれど、しかしそれさえも構っていられない状況だ。私は何故か図書館の一角にある寝台にメディを寝かせる。天蓋がついているお蔭でここはそれほど埃っぽくない。掛纏を閉める。
「図書館で寝起きするなんて相当なものぐさね」
「貴方だって大差ないでしょう?」
確かに私の寝室も工房同然ではあるけれど。
「そんなことより、調べたいことがあるわ」
くだらない掛け合いは程々に、私は本題に入る。
が、素っ気ない返答しか得られなかった。
「自分で調べればいいじゃない。どうしてこう皆勝手なのかしら」
「黒い鼠と一緒にしないでくれる? 許可は取ったんだから。それより、花に関する本は? 毒でもいいけれど」
溜め息。そして呆れ顔で指差す。
「ありがとう、パチュリー」
「無期限の貸出はしていないから」
後ろ手をひらりと振って答え、私は本の谷間を急いだ。
有名らしくすぐに見つかった。
『鳥兜は金鳳花科鳥兜属の多年草である。
名前は花の形が烏帽子や鶏冠などに由来すると言われる。
有毒。主成分は植物塩基の附子毒。呼吸困難、心臓発作を引き起こす。致死量は二~五瓱。解毒剤はない。
水に対しては殆ど不溶』
私は人間でないから致死量や症状などと言われてもぴんと来ない。解毒剤がない、というのは納得がいった。なるほど、道理で抗毒薬の効きが悪かったわけだ。配合してある筈の解毒作用が働かなかったのだろう。
しかし水に溶けないというのが少し不可解だ。あの毒霧は何だったのだろう。水ではないのだろうか。とはいえ、水に溶けなかろうと関係はない。あの人形は何らかの能力を得ている。メディにしても毒を操る能力があるのだ。直接空気中に撒布したりしているのであれば不思議ではない。つまりは、そういう力があると見ていいのだろう。
「毒を操るとなれば、あの子の力には頼れなさそうね……」
書頁を捲る。
不意に声が掛かった。
「お、珍しいな。アリスが真剣な顔で本を読んでるなんて」
件の無期限借用者。魔理沙だった。
「珍しいとは何よ。まるでいつもは不真面目みたいな言い草ね」
「実際そうだろ?」
その続きを彼女は言わない。
「で、何調べてんだ? 困りごとならその、なんだ。ちょっとなら……手伝うけどよ」
語尾が小さくなったのは、全く冗談に応じない私に少し動揺したからか。
「遠慮しておくわ。あげられそうなものもあいにく持ってないし」
「いや、別にものが欲しいんじゃないぜ」
「それだけじゃないのよ」
浅く一息吐き、魔理沙の方を向き直る。曖昧な笑みを浮かべ、少し困ったような顔をしている。
「これは、私の問題だから。私が何とかしなくちゃいけない」
「……そうか。じゃ、仕方ないな」
そして彼女は潔く諦めて背を向け、
「あー、一ついいか?」
首だけでこちらを振り返り見る。
「何よ?」
怪訝な顔で尋ね返すと、いつになく真剣な顔をして、
「毒は中和できる」
「え?」
「それじゃ、またな」
そう言い残して身を翻し、あっという間に黒い導衣が闇に融け、見えなくなってしまった。
毒は中和できる……か。
天蓋の中を覗くと、私の気配に気付いたか、メディが目を覚ました。
「う……うぅん……あれ、ここは……」
「おはよう、メディ」
身を捩り、瞼を擦り、そしてやんわりと身体を起こす。
「あれ、アリス……? ええと……わたし、いったい……」
「具合はどう? どこか痛いところはない?」
きょろきょろと周りを見回す。見慣れない風景にまだ思考が追い附いていないのだろう。もう一度目を擦る。
「大丈夫、だと思うけど……ここは?」
「引き籠もり魔女の寝室、いえ、室じゃないわね。何て言うのかしら?」
まぁ、どっちでもいいのだけれど。それで通じたらしく、呟くように答える。
「引き籠もり……ええと、いつだったかの悪魔の従者のところの、かしら。でも、何で……わたし、何が……?」
気を入れ替える。伝えなければならない。私にとってそれは相当に辛い。辛いけれど、メディはもっと辛いだろう。目を見つめ、静かに言葉を紡ぐ。
「あのね、メディ。辛いかもしれないけれど、頼みがあるの。聞いてくれるかしら」
「え……どうしたの、アリス?」
不思議そうに尋ね返す。覚えていないのか、思い出さぬよう心が鍵を掛けてしまったのか。いずれにしても、知っておいた方がいい。
「負の感情は危険よ。いついかなるときだってね。それから、ありとあらゆる場合にも。多すぎる毒と同じように」
「——!」
それだけで私の言わんとしていることを察したのか、びくり、と瞬時に身を硬くする。
「毒が溢れれば命令は暴走する。負の感情も肥大化すれば暴走を招く。負の感情同士はお互いに引き合い、重なり合い、一つになって、そうして膨れ上がる」
メディは俯き、黙って聞いている。
「棄てられたものの怨みと、行き場を失った彷徨える魂の無念との親和性は高い。互いに引き寄せられ、彷徨う霊は棄てられた器に取り憑こうとし、器は棄てたものへの復讐心に、無縁の魂の無念を取り込もうとする」
悲痛な魂同士の共感だろうか。
人は——いや、あらゆる魂は、死してなお孤独ではいられない。
「私の家にはね、あまり表に出したくない人形があるの。涙を流したり、髪の毛が伸びたりするような、ね。貴方の言うところの躰を手に入れた人形かしら。普段は封印してるのだけれど……何故だか分かる?」
分かるとも分からないとも。元より問うつもりではないので、構わず続ける。
「危ないから」
たった一言。それで過不足なく私の言いたいことは言える。
「危ない?」
でも、全てが通じるなんて思っていない。頷き、答える。
「人形が暴走するところなんて何度も見ているわ。今回が初めてじゃない。いろんな人形を集めてはみるものの手に負えなかったり、手入れを怠ったがばかりにいつの間にか呪われてたりね」
小休止。息を入れる。
今この図書館にあるのは本以外には静寂のみ。魔理沙はもう帰ったのだろう。
何を見るでもなく、どこを見るでもなく、ただ遠くの方を見遣る。
「あの人形、多分棄てられてから相当長い間経っているわ。その間、感情は蓄積され、次第に純化していく。しかも完成する前に棄てられてしまった。無念よね。私なんかには想像もつかないくらいに。
そうして、ただただ純粋な怨みの塊が出来上がった」
それほど大きな声で喋っているつもりはないのだけれど、自分の声が思いの外大きく聞こえる。反響している、というのもあるかもしれない。私の声以外に反響する音がないからかもしれない。
もう一度、メディの方を向き直る。
「ねえ、メディ。このまま放っておいたらどうなるか、分かるわよね?」
「……うん」
「何とかしなきゃいけない。怖いとは思うけど、貴方の力が必要なの」
しばしの沈黙の後。
メディは静かに、だけど確かに、頷いた。
血戦。
相手は話をまともに聞いてくれたりはしない。弾幕遊びでは済まないだろう。本気で、とは言わないまでも、確実に相手を倒す術を組み立てなければいけない。逃げ場を与えたり残したりするような戦い方ではいけないのだ。もちろん、万能な戦術なんて存在しない。一方で、万能な防御手段も存在しえない。
どうなるか分からない。それはどうにでもできるということを意味する。
いずれにせよ。私にとっても、メディにとっても。
これは乗り越えなければいけないものに違いはないのだから。
そうしてやってきた鈴蘭畑への道。
「心の準備はいい?」
「うん、もう大丈夫。多分怖くないと思う」
「そう……無理はしないでね、って言いたいところだけれど、メディに前に出てもらわなきゃいけないのよね」
私は鳥兜の毒に耐性がない。もちろん人間じゃないからその程度で死んだりはしない。人間も、私の知る限りでは毒くらいで死んだりしなさそうに見える。彼女らは特別に違いないけれどね。とはいえ、それでも無事ではいられないと思う。少なくとも私は自信がない。仮令自信があったとしても毒の中で我慢比べなどしたくない。
それよりも心配なのはメディだったけれど、
「ううん、平気」
微笑んで答えてくれる。少しだけ不安が見えたけれど、それを抑えて、表に出さぬように押し隠そうとして微笑んでくれたのだ。心が締め付けられる。
懐に手をやると、そこには特別に用意した人形。急拵えだから上手く行くかどうか。不安なのは私も一緒だ。本当に上手くやれるだろうか。
「アリスのこと、信じてるもの」
不意に声を掛けられて思考から引き戻される。
いや、不意ではない。返事に続けるようにして言ったのだろう。唐突に感じたのは私が思考の淵に入り込もうとしていたから、ただそれだけだ。
そしてそこで漸く、言葉を咀嚼し理解するに至る。
「——!!」
顔に血が集まってくる。臆面もなく何てことを言うんだ、この子は。嬉しさと恥ずかしさに思わず目を逸らしてしまう。
「え、ええ……うん。ありがとう、メディ」
でも、何だか……自信が湧いてきた。力を分けてもらったような気分だ。気を入れ直して、しっかりと前を見据える。
道の脇に紫に咲き乱れる花々が見える。まだこの辺りはそれほど多くない。この先だ。鳥兜の咲く道を辿っていけば、きっとそれは現れる。
「さ、行きましょう」