それから、今日は情報収集に当てよう、ということであのんと別れ、淑緒は読坂市立図書館まで来ていた。
といっても、もう帰るところだ。
閉館時間まで居座ったが、大きな成果はなかった。
既にある情報の裏付けが取れただけでもよしとするか、と図書館を後にしようとしたところで。
不意に背中に声がかけられる。
「依智くん、ですよね?」
振り向いた先にいたのは、降瑠だった。
「あー、ええと、古府さん」
どうしてこんなところに?
と尋ねるよりも先に、勢い込んで喋りかけてくる。
「はい! 覚えてて、くれたんですね」
思わず淑緒はたじろぐ。
「あ、いや、ほら。変わった名前だったから」
「ふふ、そうですね。でも、人のこと言えないと思いますけど」
呆気にとられる淑緒を見て、降瑠は首を傾げる。
「どうかしましたか?」
どうかしましたか、ではない。
何かおかしい。
「や、なんていうか。よく喋るな、って思って。イメージと違ってた」
少なくとも、淑緒の知っている降瑠は、こんなにも多く喋ることはなかった。いつも一言二言で、そう、こんなにもはっきりと声を聞いたのは初めてだ。
「そ、そうですか? そういわれてみると……そういえばそうですね。なんでだろう。あのですね。依智くんと二人っきりだと、なぜだか話しやすい感じがします。自然に声が出る感じっていうか、なんというかですね」
すらすらと淀みなく喋る。
「あんまり人からは取っ付きやすいとは言われないんだけども」
「まあいいじゃないですか。それより、依智くんも図書館に用事だったんですか?」
「俺はそうだけど、古府さんは? っていうか今日学校来なかったよね」
「サボっちゃいました」
「サボっちゃった……って」
「ふふ……たぶんわたし、依智くんが思ってるほど真面目とかおとなしかったりじゃないんだと思います」
「サボって図書館っていうのも変な感じはあるけど」
「そうですね。でも、図書館って勉強するところじゃなくて、本を読むところですから。本読むの、好きですし。学校サボって好きなことしてるのって、やっぱり悪いことですよね?」
悪戯っぽくはにかんで言う顔は、教室にいるときよりもずっと生き生きとしていて、こちらが本来の姿なのだとさえ思える。降瑠の言うとおりなのかもしれない。ただ、それでもやはり違和感は拭えない。
昨日見かけた姿とも、なんとなく雰囲気が違っているように思える。
「昨日も図書館に?」
「え?」
「ああ、いや、それじゃ違う用事なのかな。犬の散歩とか」
「何の話ですか?」
「昨日の夕方、商店街の方で見かけて、声を掛けたんだけど」
「……?」
きょとん、と降瑠は小首を傾げる。
「わたし、昨日の夕方は家にいましたよ。見間違いじゃないですか?」
昨日見かけたのは、やっぱり見間違いだったのだろうか。日も落ちていたから、そうだとしても不思議ではないのだが。
「犬っていえば、確か比奈ちゃんも犬飼ってましたね。すっごくおっきい犬なんですよ。あれは怖かったなあ。昔のことですけど」
「昔から友達なんだ」
「わたしの最初の友達で、比奈ちゃんの最初の友達もわたしですから……って、そうだ。わたしこれから用事があって、すぐ帰らなきゃいけないんでした。ごめんなさい、なんかばたばたしちゃって」
「い、いや、べつにいいよ。引き止めても悪いし。それじゃまた明日」
「はい。また明日、学校で!」
降瑠の背を見送る。
それにしても、驚くほどよく喋っていた。
あれが素なのだとしたら、互いに最初の友達同士であるはずの比奈に対しても、本心で接することができてないってことになる。だが、降瑠は比奈のことを心から友達だと思っているように見えた。
他にも腑に落ちないことが多い。今日彼女は学校を無断欠席したことになるが、クラスメイトはおろか、教師すらも、彼女が登校してこないことを不思議に思っていないようだった。比奈も何も言わなかった。普段から常習的にサボっているのかもしれない。だとすれば、それはまだ分かるほうだ。
だが……、とそこへ思考を遮るように、Ch@ttererにあのんからのメッセージが届く。
『調査のために、これから虚時間に入る。ちょっと気になることがあって入るだけだから、淑緒は来ても来なくてもいい。もし来るのなら、座標を送るのでそこで合流しましょう』
『了解、こちらも虚時間へ向かう』と短く返信すると、淑緒も図書館に背を向けて、虚時間へと入り込む。
あのんに指定された座標は、旧市街の住宅地の一角。
虚時間に入る前にストリートビューで確認してみたけれども、通りと路地が合流しているだけのただの三叉路。ごく普通の景色だった。
ここで待ち合わせをする意図はよくわからない。誰かの家が近くにあるのだろうか。まさかあのんが自分の家の近くを合流場所として指定するとは思えない。少し無防備にすぎる。淑緒のイメージの中のあのんは、そんなに分かりやすい隙を見せたりしない。
と、商店街と住宅街の境目に来たところで。
不意に、交差路を横切る人影が目に留まった。
口裂け女……?
いや、間違いない。セーラー服姿だったし、一瞬しか見えなかったが、その口は耳元まで大きく裂けていた。だが、どうもおかしい。昨日見た口裂け女と容姿が違っている気がする。記憶違いとかではないはずだ。
ただ、虚時間にいる間は何が起こるか分からない。
自身の容姿を欺く怪承も少なくないからだ。
追うべきか。
デンワを見る。アンテナマークが目まぐるしく入れ替わる。有り体に言って、壊れた表示だ。虚時間では、電波が通じない。ここではデンワの電波が乱れるだけじゃなく、同時に電波以外の何かも受け取ってしまうから、通信機能は使い物にならなくなる。
一瞬、あのんと合流するために所定のポイントに向かうべきか迷ったが、追うことに決める。
今追わなければ、見失う。
口裂け女らしき影が横切った交差路へ、駆ける。
が、辺りを見回してみても、口裂け女の姿はおろか〈影〉の気配すらない。どうやら、見失ってしまったようだ。この先は住宅街。どこかの建物の中に入ったんだろうか。
そこへ、声がかかる。
「あら?」
声の方へと向き直ると、あのんがいた。
「合流の座標はもう少し先じゃなかったかしら」
「いや、実は」
ここへ来る途中で、口裂け女らしき人影を見たことを伝える。
「ふうん。けれども、昨日見たのとは、外見が違っていた。見間違いでないのなら、確かに不思議な話ね」
「って言っても、もう見失ったから確認する手段はないんだけど」
「そうね。ひとまず頭の片隅に入れておくだけにしましょう」
ただ、あの姿。どこかで見たことがあるような気がする。確証はない。確証がないことを考えても仕方がない。思考を脇へ追いやる。それよりも。
「ところで、気になることって?」
あのんが虚時間に来た理由だ。
ところが、彼女は言葉を濁した。
「口で説明するよりも、見たほうが早いわね。ここからそう遠くないのだし、行きましょう」
あまり言いたくないことなのかもしれない。いずれ分かることであれば、敢えて無理に聞き出すこともない。話題を変える。
「そういや、さっき図書館で古府さんに会ったよ」
つもりだった。
「……誰?」
「いや、古府さん。古府降瑠」
「そう言われても分からないのだけど……淑緒の友達?」
「クラスメイトだよ。日々井さんと仲良くしてる子がいたでしょ」
「日々井比奈と? いえ、彼女はほとんどのクラスメイトと概ね良好な交友関係にあると思うのだけど」
一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかった。それとも、おかしくなったのは自分の方なのだろうか。
「……覚えてない? 昨日、口裂け女とか、人面犬の噂話、俺と日々井さんと、古府さんの三人でしてたでしょ。あのんも見てたはずだ」
「三人だったかしら……あまりよくは覚えていないのだけど……でも言われてみれば、妙ね。昨日の朝のことなのに、どうしてこんなに思い出せないのかしらね」
「って言われても」
「まあ、いいわ。それよりも」
あのんが立ち止まる。
「ここは?」
見渡しても、何の変哲もない、住宅街の路地のどん詰まりの袋小路。三方をブロック塀で囲まれ、行き場はない。電信柱の陰にポリバケツが置かれ、その周りにゴミ袋が積み重ねられている。
異臭がする。ポリバケツとゴミ袋の山を見て、ふと生ゴミの臭いかと考えたが、違う。これはそういう臭いじゃない。
不吉な臭いだ。思い当たる可能性。
「首なし死体が発見された場所」
果たしてそれは正しかった。
それをこともなげに言うあのんに、淑緒は反論する。
「ニュースじゃ、ここまで詳しい場所は特に報道されてなかったと思うけど」
「パトカーが停まっていて、警察官が集まっていて、キープアウトのテープで封鎖されている。普通は何かあったと思うわよね?」
確かにそうかもしれない。だが、死体が発見されたのは今日の未明のことだ。
「そんな時間に起きてたの?」
「別にそんなことをする必要はないわ。これよ」
そういって、あのんは淑緒にデンワを見せる。
そこに映っているのは、多数の警官と、パトランプを点灯させたまま停車するパトカー、黄色に黒文字のバリケードテープを張り巡らされた路地。そして、画像データに付与された位置情報タグ。
「もっとも、もう画像データはネット上にはないけれど。アップロードされてすぐに消されたみたいね」
「どうしてそんなデータを……ああ、いや、そうか」
〈語り部〉ネットワークには、前線で調査をする〈語り部〉の他に、情報収集など後方支援を担当する要員がいる。
「察しのとおり、わたしのパートナー。そのうち紹介することもあるでしょうね——今はそれどころじゃないから、難しそうだけれど」
あのんが視線を巡らせる。
淑緒もまた、気配を感じていた。〈影〉が集まってくる。
「武器の準備をしておいて」
「あのんは?」
「わたしの力。忘れたのかしら?」
言いながら、あのんは手を前に翳す。
夕日を背に受けているからか、あのんの輪郭がオレンジの光を帯びたように見える。否。見えるのではない。はっきりと、あのんと世界を分ける境界線が、赤橙色に明滅している。
まるで、昼と夜を行き来するかのように。
「よく言葉を紡ぐって言うけれど、言い得て妙よね。英語では一連なりの文字をストリングと呼んで、これは絲と同じだわ」
宙に文字が舞う。
これはイメージだ。言葉が目に見える形で具現化している。
「わたしの紡ぐ言葉もまた、絲になる」
文字が列を為して、あのんの周りを飛び交う。
「言葉が絲なら、語り部は物語の仕立屋というところかしら」
〈影〉が密度を増す。あのんの元には、淡く光る文字列が集う。路地に陰影が濃く刻まれる。
「言の葉は、理の刃」
あのんの周囲を漂う文字の帯が、左手に収束。一振りの刃へと変わる。
「これがわたしの愛刀、言葉よ」
淑緒は、護身用ロッドを手に、ただ見とれているばかりだった。
「さあ、幕を開きましょう。物語に必要なのは、言葉と、舞台と、それから役者」
集まった〈影〉の群れが、彼女が纏うオレンジの光を避けるように、路地の隅、電信柱の後ろ、ポリバケツの裏、塀の影へと逃げていく。
「遅れてやって来るのは、誰かしら?」
ゆらりと。蠢く〈影〉の群れの間から。それはやってくる。
「お出ましね」
「あの男の死体を持ちだしたのは、あんたたち?」
耳まで大きく裂けた口。
昨日出会った姿のままだ。
さっき見たのとは、違っているように見える。
「そうだったら、どうするのかしら」
あのんは挑発するような物言いで答える。
「勝手なことされると困るのよね。行方不明事件が猟奇殺人事件に変わったら、そこらへんの通り魔のせいにされちゃうじゃない?」
「なるほど。あなたが噂をばら撒いていたのね」
「どういうこと?」
「自分自身で噂を流せば、皆が自分のことを信じてくれるでしょう? そうすれば、この世界に存在していられる、この世界に存在する力が強くなる。怪承というのは、そういう類の存在よ」
「それで? それが分かって、どうするっていうの?」
鉈を弄びながら、口裂け女が不機嫌そうに足を踏み鳴らす。
「口裂け女なんていない。そんな噂が流れたら、困るわよね?」
ヒュンと風を切る音。
無言で鉈を振るう口裂け女に、あのんは造作もなく刀を打ち合わせる。キンと短く金切り声をあげ、互いに弾かれる。と、同時に踏み出し、振り上げる、振り下ろされる、鉈と、刀。
カン、カアン。
打ち合う。
鉈が振り下ろされ、それに合わせるように刀が横薙ぎで打ち込まれる。刀を押し返して、逆袈裟に振り上げられる鉈。交差するように振り下ろされる刀。
見ているばかりではない。あのんとは逆側に回り込み、ロッドを撓らせて打つ!
左脇腹へ、確かな手応え。
「ッ! っざけんじゃないわよ、クソが!
口裂け女が回し蹴りを放つ。
「うぐっ——」
躱しきることができず、吹き飛ぶ。
が、その隙を見逃すあのんではない。
銀光一閃。口裂け女の頭を過たず撃ち抜く必殺の一刀——それを超反応で、口裂け女がわずかに身を逸らし、紙一重で躱す。
そのとき、唐突に、あのんが言った。
「日々井比奈。あなたが口裂け女だったのね」
「え?」
「その割には、あのんはあまり驚いていないのね? 依智くんの方は、まだ信じられないって顔だけど」
「日々井、さん?」
「そうでーす。日々井比奈でーす。あたし、口裂け女でした」
呆然とする淑緒に、比奈が迫り。
「——なんちゃってね」
鉈を振り下ろす。
呆然としながらも、かろうじてロッドを振るって、鉈を受け止める。鋼鉄製の芯棒が、すさまじい力に撓む。左手で棒の先を支え、両手で鉈を受ける。
「俺は、古府さんが怪しいと思っていたんだけど、な」
昨日と今日の挙動の不一致。
降瑠のことを覚えていないあのん。
おしゃべりな子には気をつけてという謎の助言。
昨日の降瑠は、間違いなくお喋りな子だった。
だが。
「降瑠が? アハッ、それはないわ。あの子はなんにも知らないんだから」
よくよく考えてみれば、昨日も、今日も、よく喋っていたのは、この口裂け女と。
「日々井さん、だったんだな」
日々井比奈だ。
「淑緒!」
あのんが、口裂け女の背に一太刀放つ。
が、口裂けは淑緒から離れつつ、躱す。
二対一。不利な状況にもかかわらず、口裂け女は嗤う。
「本当に、なんにも知らない。あたしに大事なもの全部奪われたのに、それも知らない、かわいそうな子」
「大事なもの?」
「知ってる? 降瑠って、すっごく綺麗な声で喋るんだよ? だから、あの子の周りには、いっぱい友達がいて。あたしはそれが羨ましくて、欲しくて、嫉妬して、欲しがって。だから」
奪ってやったの。
あの子の口を。
あの子の友達を。
「口を、奪う……?」
「あの子、ほとんど喋んないじゃん? それ、あたしがやったのよ? 口がなかったら、喋れないもんね?」
「あなたは、前から怪承の力に目覚めていたのね」
「怪承の力で、口を奪った……?」
現時間に影響を及ぼすほどの力で?
それは怪承の力なのだろうか。
語リ部の力と、どう違うのだろうか。
いずれにしても。
彼女の言うことが本当なのだとすれば。
何かがおかしい。齟齬がある。
だが、それ以上思考を続けることはできそうにない。
「でも、もうお喋りも飽きちゃったな。つまんないし、終わりにしよっか」
口裂け女の背後の〈影〉から、おびただしい数の獣の群れが這い出てくる。
首のない獣の群れ。
それに混じって、昨日の人面犬の姿も見える。
「あたしのペット。かわいいでしょ?」
あのんは肩を竦める。
「こんなにたくさんの首なし犬に囲まれていると、屠畜場にでも来た気分ね」
「屠畜場って行ったことないんだけど、こんな感じなの」
「わたしも行ったことはないわ」
軽口を叩いている場合ではない。
「そっちの方は、任せたわ。わたしは大きいのをやる」
そう言って、あのんは昨日戦った人面犬へと向かっていく。
「あのん!」
視線だけをこちらへと向けるあのんに、伝える。
「狙うなら、首だ! 頭と胴体の間! そこが一番おかしい!」
人面犬の中で、一番不自然な場所。
どうして犬の胴に人間の首が生えているのか。
「……なるほど、確かにそうね」
左手で無造作に刀を振るって、襲いかかる首なし犬を払い退ける。
あのんは大丈夫だろう。
問題はむしろこっちの方だ。
護身用ロッドを構え、首なし犬の群れと対峙する。
首なし犬の群れが、淑緒に飛びかかる。
殴る。打擲。ロッドが撓る。
首なし犬を弾き飛ばし。首なし犬を叩き飛ばし。首なし犬を払い飛ばす。
が、きりがない。
ロッドを打って、吹き飛ばしては、次から次に飛びかかってくる。
こちらには明確に時間切れがある。
逃せば、面倒なことになる。
焦りは募っていく。
ふと思い至る。
口裂け女が時間を稼ぐために首なし犬たちを呼んだのだとすれば、足止めという目的は充分に果たされている。逃がすわけにはいかない。
そう思い、ちらと視線を送るとあのんの方に口裂け女が近付いていくのが見えた。
逃げない?
いや、それよりも。口裂け女は、悠々と歩み寄る。あのんは、口裂け女の方を。
向かない!
そのはずだ。向こうには数の優位がある。この好機に、自分の正体を知っている人間を見逃すはずがない。
間に合え! 淑緒は祈り、叫ぶ。
「あのん!」
何も言わずに、彼女は大きく飛び跳ねて、口裂け女から間合いを取る。対する口裂けは腰を低く落とし、鉈を構え、溜めを作り。
弾丸のように、飛び出す。
その直前の一瞬のことだった。
突然。
首が、転がり落ちる。
口裂け女の、あまりにもあっけない、最期だった。
同時に、あれだけ数がいた首なし犬たちも、まるで泡が弾けるように消えてしまった。首のない人面犬の胴体だけが、横たわっている。それさえもう起き上がることはないだろう。
そういえば、比奈はあれをペットと呼んでいた。
言われてみれば、今そこに横たわっているのは、昨日散歩に連れていた犬の胴体のように見えなくもない。昨日の虚時間で見たときよりも、心なしか小さく見えるような気もする。
いずれにしても、比奈は。
口裂け女は、死んだ。
今際の言葉さえもなく。
首を切り落としたのは。
口裂け女の後ろに立っていたのは、口が裂けた女。
首を拾い上げて、その口を撫でる。
「わたしの口……わたしの口だったのに」
聞き覚えのある声だった。
「わたしは比奈ちゃんの友達でいたかっただけなのに、どうしてわたしの口を取ってしまったの?」
比奈ちゃん。
口こそ大きく裂けてはいたが、その声は図書館で聴いた降瑠の声と同じで。
「わたしは比奈ちゃんともっとお話したかったのに」
「古府、さん?」
つまり彼女は、古府降瑠と呼ばれている誰かに違いなかった。
口裂け女が、二人いる。
「でも、ここなら大丈夫。わたしも比奈ちゃんも、お揃いの口だから」
比奈の首を抱きかかえてうずくまる口裂け女の上に、昏い影が落ちる。
口裂け女が、見上げる。
鉈を振り翳した、首のない、かつて比奈だった何かが、そこに立っていた。
鉈を、振りかぶる。
刹那、銀光が奔り、振り下ろされる凶刃を弾き返す。
「この子が、淑緒の言っていた古府降瑠ね」
刀を構え、首なしと対峙しながら、あのんは振り返ることなく淑緒に確認する。
「ああ、口こそこんなになってるけど、間違いないと思う」
「不思議なものね。さっきまでそんな子のこと少しも記憶になかったはずなのに、こうして目の当たりにすると、そういえば、いつも日々井比奈と一緒にいたわねって、鮮明に思い出せるわ」
どうして忘れていたのかしらね。
そう呟くあのんの声には、わずかに自分を責めるような。自分を嘲るような色が見える。
だが、それは今はいいだろう。
「淑緒はその子を連れてここから離れて。その子には聞きたいことがたくさんある」
「分かった」
頷くと、降瑠の手を引き、駆け出す淑緒を見送って、あのんは首なしと対峙する。
首なしの周りに、首なし犬が集まってくる。
「ペットとお揃いね。よかったじゃない」
首なしが合図をするように鉈を翳すと、首なし犬たちが一斉にあのん目掛けて飛びかかる!
あのんが左手の刀を一振りするだけで、首なし犬の胴が半分に別れる。まるで豆腐を切るように、音もなく、滑らかに、首なし犬を次々に斬り裂いていく。
「こういうのをこそ、屠畜場と呼ぶべきね。後で淑緒に話しましょう」
首なし犬を切り伏せながら、首なしの元へゆっくり近付く。だが首なしは、鉈を持つ右手をだらりと下げたままだ。
「降参のつもり……では、ないようね」
左手に何か持っていた。
サッカーボールほどの大きさの毛の塊。
いつの間に手にしていたのかは分からない。毛の塊を持ち上げて、胴の上——首があった場所——に乗せる。毛の塊ではない。首だ。それから、大きく裂けた口を開いて、言った。
「わらわのしもべを可愛ごうてもろたようやの?」
長い舌で鉈を舐めずり、鋭い眼光をあのんへ向ける。
「お礼を、返さんとのう……?」