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読坂連続行方不明事件
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黄昏フォークロア

読坂連続行方不明事件〈二〉

 翌日。
 輿高校、一年B組の教室。
 クラスメイトたちの好奇の視線に背を向け、チョークを手に、黒板に名前を書く。
 
 変わった名前だとよく言われる。
 だから、その名前を書いたとき、教室内のざわめきがわずかに大きくなっても、驚きはなかった。
「転校生の依智淑緒です。依智は、数字の一じゃなくて、市場の市の発音なんで、気をつけてもらえたらなと。家庭の事情で変な時期の転入になったけど、どうかよろしくお願いします」
 七月の上旬。
 例年より早く梅雨が空けて、季節は夏の入り口に差し掛かったところ。気温は既に三十度を越え、今日の予報では真夏日になるという話だ。先日まで居座った雨雲の置き土産か、教室内は湿気が篭って蒸し暑い。もうしばらく晴れが続けばカラっと乾くのだろうが、その頃には夏季休暇が目前に迫っている。そんな変な時期に、変わった名前の転校生がやってきた。
 格好の噂のタネになりそうだ、と淑緒は思う。
 こんなにも噂に満ち溢れた世の中にあっても、まだ彼らは噂を求める。否だ。
 こんなにも噂に満ち溢れているのは、彼らが貪欲に噂を求めるからこそ。求められれば増え、一度は満たされてもやがてすぐに飢える。飢えれば、求める。そうして、噂が増え続けた。
 娯楽の材料になるのは正直あまりいい気分はしないが、仕方がない。むしろ事件の調査には都合がいいだろう。会話の口実になる。
 ふと、教室後方の窓際の席で、窓の向こうの空をぼんやりと興味なさそうに眺めている女子生徒の姿が目に止まった。
 色素の薄い髪を、梅雨明けの湿った風にかせている。退屈そうな、というよりは、ただの無関心。無感動。転校生の自分にも、きっと興味はないのだろう。そういう人がいても不思議ではない。
 ただ、どうしてだか不思議な印象を覚えた。理由は分からないが。


 一限目が終わって休み時間になると、早速クラスメイトの一人が淑緒に声を掛けてきた。
 いかにも、クラスの中心にいそうな感じの女子だ。
 空気を含んだようにふわっとしたエアリーボブの髪を、明るすぎない程度に染めている。顔のパーツひとつひとつがハッキリしていて、人受けしそうな感じだな、と淑緒は思う。
 男子からはもちろん、女子からも人気がありそうだ。
 ヒエラルキーの上層に位置する人間。
 おそらく実際そうなんだろう。
 転校生に最初に声をかけるのは、そういう人間だ。
 他の生徒は、遠巻きに見ているだけ。
 分かりやすいなと思う。
 学校とはそういう社会構造の場所だから。
「ねえ、どっから来たの? 家庭の事情って、何があったの? いや、答えにくいならいいんだけどさ。ほら、こんな時期だし、ね?」
「待って、そんな一度にいろいろ聞かれても困るよ」
「あ、そっか。そかそか。ごめんね?」
「いや、いいんだけど。まずどっから来たかって言うと、から」
「へー、近いじゃん」
 岐府から読坂までは、車で一時間もかからない。電車は直通の路線がないので、少し遠回りになってしまうが。ただ、実のところ、岐府からというのは正確ではない。単に岐府を経由したというだけだ。淑緒には定住地なんてないのだから。
「で、家庭の事情の方は?」
 もちろん、家庭の事情なんてものもない。
「……まあ、親の転勤、かな?」
 だから、適当に言いっておくのだが。
「なんで疑問形?」
 食い下がられてしまって、少し面倒さを感じた。
 ただ、こういうことには慣れている。
「親いないから、わかんなくてさ」
「あー」
 これは「しまった」という意味ではなく「なるほど」の間投詞だ。珍しい話でもない。
「そういうのだから、あんま面白くないし」
 そう、面白い話でもない。つまり、これ以上触れないでくれ、というサインだ。それが伝わったか、ほんの少し申しわけなさそうな顔をする。
「なんか、ごめんねー?」
 ほんの少しの申しわけなさで充分だし、あまり深刻にとらえすぎるとかえってこじれる。それを彼女はよく理解しているらしい。
 なるほど、伊達に上位カーストにいないわけだ。
「べつに気にしてないからいいよ。それに、今どき親いないとか珍しくないでしょ。転校もありふれたつまんない理由」
「まあ、それはそうかな。んとこもそうだもんね」
 視線を追う。淑緒からは、斜め前の席。
 存在感の薄い、地味な女子がいた。
 と呼ばれた女子はこちらを向いて、緩慢な動作で頷く。真っ直ぐな黒髪を襟足の高さで切りそろえたおかっぱと、雪みたいに白い肌の対比が印象的ではある。いかにも大人しそうな、物静かな雰囲気で、悪く言ってしまえば、どことなく陰気な感じがする。
 カースト中層か、下手をすれば下層の住人だ。
 それがカースト最上層の住人に気安く呼びかけられている……というのは、おそらく、彼女はこの教室内で特別な存在の一人、ということなのだろう。
 そんなことを考えながら彼女を見ていたら目が合った。すぐさま視線を逸らされる。人付き合いに慣れていない人間の反応だった。
「あ、あたし、。こっちは、。雪が降るに瑠璃の瑠で降瑠なの。綺麗な名前でしょ? それに比べてあたしの名前のフツーさと言ったら」
 比奈と名乗った女子は、そう言ってコロコロと笑う。
「名前と苗字の組み合わせはちょっと面白いと思うけど。ひがいっぱいで」
「まあね。でも、淑緒くんの方が、変わった名前だよね? 苗字もそうだし」
「そんなにいいものでもないよ」
「そう?」
 少なくとも淑緒にとっては。
「あと、できれば名前じゃなくて、苗字で呼んでくれたらなと」
「そっか。じゃあ、依智くん、かな」
「どうも」
 淑緒は、自分の名前があまり好きではない。
 もっと平凡な名前でよかったと思うし、もっと典型的な男性名でよかったと思う。
 変わった名前をつけるのは、唯一無二の名前を与えることが親の愛情だと信じている、独り善がりな親のエゴだ。普通の名前でいい。名前のせいで悪目立ちしたりしないで済む。普通の名前を子供につける親は、名前がもたらす影響力を理解している。常識的な感性の持ち主だ。
「ひなは、名前、ふつうだけど。両親いるのは、めずらしいよね」
「いや、珍しくはないでしょ……? 珍しい? フツーのサラリーマン家庭だよ、うち」
 そのフツーのサラリーマン家庭というステロタイプは、もはやフィクションの中くらいでしか見ることができない。それでも多くの人は、その姿が普通だと今でも信じている。
 失われた普通像だ。
 片親なんて珍しくないし、親がいない、というのも割と聞く話になった。別に親と死別したとかじゃなく、単に親がどうしようもなくて、親に育児放棄されたとか、親から隔離しなければいけなかったとか、何らかの理由で親の元を離れて、公共や非営利の機関に庇護下に置かれるようになった子供たち、というのが、今では決して少なくない。
 それでもなお、両親が揃っていて、父親はサラリーマン、母親は主婦、それが普通の家庭の姿なのだと、多くの人たちが信じている。
 しかし、それなら納得できる。
 比奈の両親というのは、その失われたの感性の持ち主なのだろう。変わった名前をつけることなく、身の丈にあった名前を与えてやる。
 きっと、だからこそ、彼女の今の地位があるのだ。
「や、それにしてもこんな時期に転校って、大変だよね」
「確かに変な時期は変な時期だけど、大変って?」
「ほら、事件とか」
 なるほど。最初のっていうのは、そういう意味だったか、と気付いた。
 噂話をしたかったようだ。
 淑緒は、まだこの街に来たばかり。この街について深く知らない。ありとあらゆる噂話を聞かせることができる。淑緒としては、願ったり叶ったりだ。
 この街の事件についての情報がほしいのだから。
 彼女の噂話に付き合ってやろう。
「事件……あの連続失踪とかって? まさかとは思うけど、神隠しなんて信じてたり?」
「まさか。でも行方不明者は実際に後を絶たないって言うし。物騒は物騒だよね」
「でも、連続失踪ってそんなに物騒かな。連続誘拐ならともかく」
 何者かによる犯行なら、気をつけようがある。
「たとえば、職を失って家に帰れないとか、受験勉強に疲れて家を飛び出したとか、そういう人が帰ってないんだったら、それはその人たちが自分の意志で行動して、結果行方不明になってるわけで」
「ふんふん。確かにそうだよね。でもそれが」
 比奈はそこで一旦区切ると、顔を近付けて来る。
 長いがはっきりと分かる距離で、一瞬ドキリとする。が、比奈はそれに気付いたふうもなく、内緒話をするように声のトーンをめる。
「それが、ただの失踪じゃないっぽいんだよね」
「ただの失踪じゃなきゃ、やっぱり誘拐なんじゃ?」
 比奈は首を振る。
「そうじゃないの、誰か人間が犯人なんじゃなくて」
「人間じゃなかったら、一体何が?」
「怪物の仕業だって」
 真顔で言う。
「聞いたことない? っていうんだけど」
 どうやら、当たりを引いたようだ。
に呼ばれて、虚時間に引きずり込まれた人が、そのまま行方不明に、って」
 もちろんのことは知っている。
 知っているが、事件について、事件にかかわるについて、もっと詳しい話を聞かなければいけない。
「……でも、それって噂でしょ? マンガの読み過ぎなんじゃ」
 る気持ちを抑えこみ、知らない振りをする。
 と、不意に。
「わたし……見たかも」
 降瑠がぽつりと呟いた。
「見たって?」
……人の顔がついた犬がいた……」
「それって人面犬? 最近噂になってるやつだよね。降瑠も見たの? マジ?」
「そうかも……見間違えかも」
「人面犬が、噂になってる?」
「そう。A組でも見たって子がいるんだよね」
「へえ……」
 人面犬というのは、ポピュラーな都市伝説だ。人面魚だとか人面カラスなんていうのもあるが、動物の体に人間の顔、という異形の存在は、都市伝説という言葉が出回るよりも前、神話や伝説、お伽話の頃から語り継がれている。その現代版が人面犬で、まさしく都市伝説の名にふさわしい。
 ただ、人面犬の噂が流行したのは、今から半世紀以上も前だ。“ゴドディン” の任務で全国各地を渡り歩いているが、二十一世紀も四半世紀以上経って、未だに当時の都市伝説がそのままの形で噂されているというのは、見たことがなかった。
「あと、人面犬以外だと、口裂け女かな」
「なんていうか、だね」
 口裂け女なんてまさしく昭啝を代表する都市伝説だ。
「だよね、めっちゃ昭啝」
 でも、と比奈は言う。
「人面犬も、口裂け女も、見たって話、最近よく聞くから。気をつけたほうがいいよ」
「ご忠告は、ありがたく受け取っておくよ」
 人面犬に、口裂け女。
 読坂に来るときの電車内では、聞かなかった噂だ。
 比奈と降瑠の話を信じるのならば、つまり全くのでたらめでないと考えるなら、市外ではこの噂はまだ広まっていなくて、市内でも、輿水高校周辺でだけ広まっている、ということになる。
 言い換えるなら、それがの行動範囲だ、と。
 もっとも、連続行方不明事件との関連は今のところ不明だ。全く無関係の可能性もある。
「あたしの話、信じてないな?」
「いや、信じてる信じてる。最近、嘘みたいな本当の話増えてるし」
「やっぱり信じてない。いいわよ、次はもっとすごい噂話仕入れてくるんだから」
 比奈の意気込みに、水を差すように。不意に誰かが呟く。
「ばかばかしい。くだらない妄想ね」
 視線を向けた先にいたのは、あの色素の薄い髪の女子生徒。席を立って、淑緒のそばまでやって来て。
 何か言うと思ったら、そのまま後ろを通りすぎて、教室の外へ出てしまった。
「彼女は?」
 比奈に尋ねる。
「ええと、あのん? ああ、七瀬あのんっていう子なんだけどね。いつもあんな調子でさ。付き合いにくいっていうか、近寄りがたいっていうか」
「ふうん」
 七瀬、あのん。
 変な名前だ。人のことは言えないが。それに、変な名前ではあるが、珍しい名前ではない。クラスの半数が変な名前になった今のご時世、ちょっと変わった名前くらいで、珍しいということはない。変な名前同士で被っていることだってザラにあるのだから。
「依智くん、あのんに興味あるの?」
「いや、そういうんじゃないんだけど」
「あんまり関わらないほうがいいよ。あの子、ちょっと変だから」
 関わらないほうがいいと言われても。
『放課後に、屋上で』
 七瀬あのんと呼ばれた女子生徒は、淑緒の後ろを通り過ぎるときに、淑緒にだけ聞こえるような小さな声でそう言ったのだ。
 もちろん、無視してもいいのかもしれない。
 比奈の忠告に従っておけばいいのかもしれない。
 だが。
 噂話をくだらない妄想と断じておいて、どうして呼び出す必要がある? 彼女と関わらないという選択肢は、どうやらなさそうだ。


 授業が終わって屋上へやってくると、フェンス際にあのんの姿が見えた。
 無感情な眼差しで、フェンス越しに空を眺めている。
 薄曇りの空は青灰色で、すっきりしない。気象庁が梅雨明けを宣言しても、それですっかり晴れるというわけではないらしい。
 退屈な空模様だったが、あのんの後ろ姿を見ても、彼女が何を思ってこの空を見ているのかは分からない。
 あのんが教室を出てしばらくしてから屋上に向かったから、結果的には待たせてしまったことになるが、それは仕方がない。
 一緒に屋上に向かったのでは、彼女が淑緒にこっそりと約束を告げた意味がなくなってしまうからだ。
 その意図を汲んで、時間を潰してから屋上にやって来たわけだ。
 が。
「思っていたよりは早かったわね」
 外に視線を向けたままであのんが言う。来るのが早すぎたか、と思ったが、そうではないらしい。
「もう少し、来るかどうか迷うかと思ったのだけれど」
 なるほど、と淑緒は思う。
 確かに、あのんの言葉を無視してそのまま帰ることだってできたわけだ。ここへ来るかどうするか、淑緒が自分で決めることができる。だから判断には時間がかかるだろう、とあのんは思っていたらしい。
「いや、来るのは即決で来るつもりだったよ。時間を空けなきゃ、密会にならないだろ?」
「それもそうね。言われてみれば、これは密会なのね」
 言いながら、淑緒の方を振り返り見て、
「逢引に呼び出される気分はどう?」
 と、無感動な声音で淡々と尋ねる。
「もう少し色気のある口調なら、少しはいい気分だったかもしれない」
「そう」
 最初から興味なんてなかったというように、淑緒に背を向ける。
 フェンス際に寄って、あのんの隣に立つ。
 横顔を見ても、相変わらず無感情に見える。
「それで、こんなところに呼び出した用件は? 逢引のつもりじゃないんでしょ」
 あのんは、淑緒の方を見ることなく平坦な口調で答える。
「あまり噂に深入りしないほうがいい」
「噂」
 教室での話のことだろう。
「神隠し。。虚時間。人面犬。口裂け女。どれもくだらない噂だわ。でも、そのくだらない噂が、人々に不安を抱かせる。不安は人を愚かにさせる。社会に不安が蔓延すれば、その先に待つのは荒廃だけ。だから、不安の種になるような噂を広めてはいけない。噂に関わってはいけない。噂に関われば、それだけ噂は広まる。興味を持ってはいけない。噂に興味を持てば、誰かが噂を広めにやってくる」
 だから、噂に深入りしない方がいい。
 あのんは淡々と言葉を並べ立てる。
 淡々としているからこそ。
 感情の色が見えないからこそ。
 より力強く伝わる。
 淑緒の方を向き、あのんは告げる。
「これは忠告じゃなく、警告」
「従わなければ?」
 あえての問いに、愚問だと言わんばかりに、あのんはため息を漏らす。
「……あなたがどうなろうと興味はないわ」
 相変わらずの無表情だったが、まるで呆れたように見えて、はじめて感情の動きが見えたような気がした。
 気がしただけなのかもしれない。
 それっきりもう話すことはないと、あのんはまた淑緒に背を向け、再びフェンスの外の景色へと視線を放り出す。ここからはその表情は見えないが、きっと、何の感慨も浮かんではいない。
 それにしても、あの無感情な瞳で、一体彼女は何を見ているのだろう。
 青灰色の空に何かあるのだろうか。それとも、薄曇りの空の下に広がる街並みに、何かあるのだろうか。
 答えの出ないことを考えても仕方がない。分からないものは分からないのだから。
 そうして、淑緒は屋上を後にする。

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