素敵な夏休みの過ごし方、と聞いて、ふつうはどんなものを思い浮かべるだろう。
たとえば、旅行だろうか。海水浴やプールなんかは、夏ならではの遊びだ。山に登るのも気持ちがいいかもしれない。多くの野外活動は、気温こそ高いものの、動物は活発になり、植物は瑞々しく茂り、天はどこまでも高く青いから、さぞ気分がいいだろうと思う。
けれども彼は典型的なインドア派であり、体力もなければ堪え性もない。本に向かっている間の集中力は確かに見事かもしれないが、そのエネルギーの何割かを屋外での行動に割り当てたら、どんなにバランスがいいことか、と、彼の母親はつくづく感じている。
彼の場合の夏休みは、空調のよく効いた部屋で本を読むことだ。たまに家を出たと思ったら本屋で本を買ってきただけだったりする。
しかし、今年の夏は、ちょっと違っていた。ひとつはある文学少女との出会いがあったことだけど、それとは別に、もうひとつ変わったことがあった。
つまりこれはもうひとつのほうである。
彼こと、長谷川遊真は、この夏、わけあって、引っ越すことになった。
文学少女こと、倉科文庫と出会ってより、少し後のことである。
ことの次第は夏休みに入ってすぐだった。
「改築?」
「そーなの。離れの方、ちょっとがたが来ちゃっててねー」
まるで今日の夕飯どうしましょう、とでも言わんばかりの気楽さだけど、
「ぼく離れで寝起きしてるんだけど」
「うん」
そんな軽い話じゃないよね?
「その間どうするの? 母屋?」
「ばかねえそんな場所あるわけないじゃないの」
なに当たり前みたいに言ってるんだろう、母は。
しかしいつものことなので、ぐっとこらえる。
「そんなことは知ってるよ。どうにかして作るんじゃないかと思っただけ」
「もっと簡単な方法があるのよ」
「どんな?」
「遊真ももうそろそろいい年頃の男の子でしょう?」
「いい年頃っていうのが具体的にどういう意味合いかは計りかねるけど、だとしたら」
この上ない名案だ、といった様子で、
「一人暮らしとかはじめてみない?」
などと言った。
無茶苦茶である。
まだ高校生である。
「家賃はこっちで出してあげるし、生活費も仕送りしてあげるってば」
唖然とするぼくに母は付け加えていう。いま取ってつけたみたいだけど、それなかったら一人暮らしとか無理だからね?
「当たり前だよ! 高校生になにさせんのさ!」
「あら? 母さん、遊真の歳のときは働きながら定時制の高校行ってたわよ」
「……そうですね、母さんはすごいですよ。でもそれとこれとは別じゃないか」
だいたい時代が違う。うちの高校は勤労学生を受け入れてくれるようなところではないし、そんな学校いまどきどれくらいあるつもりなんだろう。そもそもこの歳で生活費を稼がせてくれるようなバイトがまずないのだった。
「いいじゃない、社会勉強だと思って」
「本業がおぼつかなくなるよ!」
「あ、もしかして遊真」
「な、なに」
「そんなにも母さんといっしょに暮らしたいの?」
「はい、出て行きます」
ぞっとしないことを言う。だったらこんな文句なんか言わないよ。
「物分りがよくて母さん助かるわ。でもあいにく部屋がまだ見つかってないのよねえ。予算これだけで、探してきてちょうだい」
「スーパーで買い物に行くのと違うんだぞ……」
相変わらず夕飯何にしよう、とかそんな調子だった。いつものことながら……。
「何、兄さん一人暮らしするの?」
居間で不動産情報誌を眺めていたら、妹がそんなことを聞いてきた。
「らしいね」
今年から中学に上がった妹は、なんだか最近難しい年頃らしいけど、世間はどこもそうなんだろうか。
「どうせ引っ越すなら学校通いやすいところがいいなーとか」
「そうなんだ。……ふうん」
興味があるような、ないような。
情報誌をなんとなしに眺める。提示された予算に収まって、希望通りの物件なんていうのはそうそう見つからないものだった。
「改築する間だけだったら母屋でいいのになぁ」
ぼそりと呟けば、
「そんな部屋どこにもないよ」
と呆れた声で返す。
「だよねえ」
ぺらり。ページをめくる。
このあたりではそれほど珍しくはないけれど、この家には離れがある。土地だけはあるというのがこの街の取り柄だ。なのに、なぜだか母屋はそれほど大きくないのだった。庭だの物置だのにスペースを取られているというのもあるけれど、結局のところ何より広ければ広いだけ場所を使うのが、人の性だった。
やっぱりそれほど魅力的な物件なんてそうそうないなぁ。
「ほんとに一人暮らしするの?」
「だって部屋なくなるし」
「それは、そうなんだけど」
へんな妹である。
「それよりさっさと風呂入って寝なよ。明日も部活だろ」
「うるさいなぁ。わかったよさっさと寝ればいいんでしょ寝るよもう……」
妹は憮然とした顔で居間を出ていく。階段を上る音が遠ざかる。
「なんだあいつ、急に怒って」
まこと、へんな妹である。
「とりあえずここでいいか……いや、ちょっと微妙っぽいけど、ここでいいよな。うん、いいよ。いい。ここでばっちりだと思う」
「なにぼそぼそ独りごと言ってるのよ気持ち悪い子ねえ」
「あんたの子だよ」
母であった。
「寝なくていいの?」
目で時計を指す。
短針は三をまっすぐ指している。
「ああ、こんな時間だったんだ。ていうか母さんこそ」
「私は不規則な生活だからいいのよ」
「そうですね……」
ぼくが馬鹿だった。
「まぁ、風呂入って寝る。その前に、これ見てよ。ここにしようと思うんだけどさ」
「……あらまぁ。よく見つけたわねこんなの」
母はちょっと感心した様子だった。
自分でもこれを見つけたときはちょっと驚いたものだけど。
こういうのは、視野が狭まってなかなか気付けない、と思う。
思うんだけど……。
「この物件見てると引っ越す意味があるのかはなはだ疑問なんだけど……」
「ばかねえ引越っていうのは環境全般を変えることなんだから」
「それはまぁそうなんだけど」
母の言ってることは、べつに間違ってはいない。しかし、事情を知らないひとからするとわけがわからないんじゃないか、という気もする。
「まぁいいわ。ここにするなら、明日手続きしてくるから」
「ん。お願い」
伸びをする。
じっとしてたから、少し固まってる。湯に浸かったらほぐれるかな。
「じゃ、風呂入って寝るー。おやすみ」
「おやすみ」
そんなわけで、ぼくの引越はつつがなく進んだ。
しいていえば本棚の整理が大変だったくらいだけど、まぁ、それもそんなには困っていない。離れよりちょっと広いくらいだし、洗濯機と冷蔵庫を置いたら同じくらい、というところだ。
「洗濯のしかたは分かるわよね」
「母さんが仕事切羽詰ってるときだいたいやってたからできるけど、それよかぼくがいなくなったら代わりどうするの」
「よくできた妹さんがいるじゃないの」
「了承済みなの?」
「あんたと違って物分りがいいもの」
そうですか。
「それにしても、荷物入れるの楽でいいわね」
「この量だったらほかの物件でも大して変わらないと思うよ」
「それもそうか」
荷物を入れ終わった部屋を見回す。
まだ片付けが必要だけど、うん。
住めるね。
「一段落、かしらね」
「うん。ありがとう」
「どういたしまして。じゃあ、私は仕事に戻るけど」
「ん。まぁ、適当やっとくよ」
ともあれ、引越はひとまず終わった。新しい生活が始まるけれど、秋になって新学期が始まるまでに慣れておきたいな、と思う。
考えると、結構たいへんな気がしてきた。
生活費が足りなくなったらどうする?とか、病気になったらどうする?とか。
深く考え出すと、不安になる。
「なるようになる、かな。なる。なるよ、うん」
言い聞かせる。
ふと。
ブブ、と震える音がする。
「メール……いや、着信だ。誰かいな」
携帯電話を手に取り、開き、出る。
「もしもし」
『あ、兄さん?』
妹である。
『引越、片付いた?』
「ま、だいたいは。そっちは部活終わったのか」
『うん、そう。それで、差し入れ持っていこうと思うけど』
「そいつは気が利いてる」
本当によくできた妹だ。ちょっと歳には不相応な気もするけど……仕方ないかもしれない。母親があの性格で、ぼくもこんなで、頼りない。しっかりもする、のかもしれない。
『ん。何がいい?』
「そうだね、アイスが食べたい。バニラアイスがいいね」
『わかった。ところで住所まだ聞いてないんだけどさ』
「そういえば」
まだ妹に話してなかったっけ。すっかり忘れていた。あるいは、妹も部活で忙しかった、というのもあると思うけど。だいたいがぼくは離れで生活しているから、顔を合わせる機会は少ない。
「こっち来るときもっかいかけて。道案内するから」
『電話で?』
「なんならこっちからかけてもいいよ。メールちょうだい」
『……むう』
「いま口頭で説明するよりそっちのが楽だよ」
『わかった。じゃ、また後でね』
「うん」
憮然とした声で電話を切る妹。
なんでまた不機嫌になったし。へんなやつだな。
それより本棚に本をしまわなければ、今日ぼくが寝るところはない。けど、暑い。正直差し入れはだいぶ助かる。スポーツドリンクの入ったペットボトルに口をつけつつ、部屋の片付けを続けていく。
ほどなく、メール。
「空メールかよ……」
タイトルもなし。メールしろとはいったけど、これは相当機嫌悪いのかなあ。
とりあえず、かける。
「……もしもし?」
『もしもし。買ったけど』
若干、いつもより声のトーンが低いのは、やっぱり機嫌が悪いからだろう。
「いま買ったところ? なら、通りを向かいに渡って、右手にまっすぐ。うん」
『ねえ、場所……』
「次の信号まで来たら右折ね」
『……ん』
無言。電話越しに聴こえる自動車のエンジン音。蝉の声。夏だ。
『信号曲がった』
「じゃあ、次の交差点までまっすぐ」
『ねえ、こっちって』
「交差点のところを左だからね」
『だから』
電話にうつつを抜かしている場合ではないのである。ぼくはこの本の山をどうにかしなければいけない。
携帯電話片手に、本をしまっていく。
作家順作家順。出版社順……。
「曲がった?」
「……うん」
『左手にアパートある?』
「うん」
バルコニーの方に寄る。
戸は開きっ放しだ。
「こっち」
『え?』
携帯電話片手にきょろきょろと辺りを見回す妹。
バルコニーから身を乗り出し、手を振る。
気付いた。
「お疲れさん。ありがとう」
「この辺りなんだったらそう言ってくれたら分かるよ、さすがに……」
妹はやっぱり不機嫌そうな顔だ。
「やー、まぁ、ちょっと驚かせたかったんだよね」
「最低」
「ごめんごめん」
「でも、こんな近くだなんて」
「うん、びっくりだよね」
そう、このアパートは、実家から歩いて五分。妹の通学ルートだし、ぼくの通学ルートでもある。駅前だの、学校近辺だの、立地条件を考えると、なかなか決まらないものが、ふと実家近辺で探してみると、意外に空室があったりして、それもなかなかいい間取りだったりする。
いまとそれほど環境が変わらないのならべつにデメリットはないのだから、わざわざより通学しやすい、とか考えて選択肢を狭めることはない。
むしろ、より生活に関わる部分の条件を重視した方がいいのは、言うまでもないことだ。なら、広さもそれなりで予算に収まる、この物件を選ばないっていう選択肢はないんじゃないかなと思ってる。
「あ、そうだ、アイス」
「おお、そうだった」
コンビニの袋から、カップのバニラアイスを取り出す。ふたを取り、木のスプーンを差し込む。
ぐにゃりとした感触が返ってくる。
「溶けちゃってるね……」
「溶けてるくらいが好きだけどね、ぼくは」
口へ運ぶ。表面が溶けていようと、アイスクリームは冷たい。
滑らかに、ほどよく甘く——。
「うん、おいしい。ありがとう」
「う、うん」
アイスのカップを机代わりのダンボール箱の上に置く。
「うん。たぶんさ。アイスが溶けるくらいの距離。それくらいがちょうどいいんじゃないかな」
「なにそれ」
「母さんはああ見えて、けっこういろいろ考えてるからさ。離れを改築ったって、母屋を片付ければ済む話じゃん。でもそうしないのは、たぶんぼくのためなんだろうね」
「うーん」
あるいは、妹のためを思ってるかもしれない。これから難しい年頃になる。妹はへんに気を遣うところがある。べつにこれまでみたいにぼくが離れに住んでいるなら、問題にはならない。でも、母屋にいっしょに住むとなると、それなりにデリケートな話だって出てくるだろう。そういうものも含めて、自然な家族なのかもしれないけど。
母さんが仕事にかまけて家事をろくにできない、という時点で、自然な家族というのがよくわからないことになったりする。洗濯なんかは結構難しい問題だと思う。
「かといって、あんまり遠くってのも変な話だよね。だって家族なんだし。まぁこういう場所っていうのも、もしかしたら何かの縁なのかもしれない」
ぼくはあんまり運命っていうのは、信じてないけど。
「だから、アイスクリームが溶ける距離でちょうどいいんだよ」
「スープの冷めない距離だったら聞いたことあるけど」
ませてやがる。
「まぁ、別にこれまでとそう変わらないね。離れが遠くなったみたいなものだと思う」
「うん。なんか釈然としないけど。ばかみたい。ひとりであれこれ悩んで……」
「ん?」
「なんでもない」
妹の顔からは、不機嫌さが消えて、代わりに諦めの色がが浮かんでいた。
「ま、これからもよろしく。っていうの、変な話だけど」
「うん。これからも変わらず」
こうしてぼくの引越は済んだわけだけど。
古書喫茶、『からすとうさぎ』は今日も客の入りはほとんどない。
「なに、長谷川、シスコン?」
「ばっ、な、何言ってるの?」
「さもなくば妹がブラコン……」
長谷川からことの顛末を聞いた文庫は、いつもの平坦な口調で言った。
「変なこと言うのはよしてほしい……」
がくりと項垂れる長谷川。そんな様子を見、朗らかに笑いながら、マスターがやってきて言う。
「はは、また文庫ちゃんは長谷川くんをいじめてるのかい」
「いえ、そういうわけでは」
文庫は、ウェイトレスの格好をしている。マスターがコーヒーを入れるのを待つように、カウンターに立つ。べつにそれほど凝っているわけではない、ごくふつうの地味めのウェイトレス。それでも長谷川としては、なんとなくじっと見入るのは悪い気がして、けれども気になって、なんだか落ち着かない。
「ただ、ここのところ顔見なかったから。何していたか聞けば、惚気話。うんざり」
ちょっとおどけた調子で、肩をすくめて見せる。
『からすとうさぎ』でアルバイトをはじめて数日のうちに、文庫はマスターに素を見せるようになっていた。長谷川は、なんとなく疎外感みたいなものを感じて、居心地が悪い。
「家の事情じゃ仕方ないね。しかし、結構広いところに住んでるんだね」
そこについてはマスターだけでなく、文庫も少し感心しているらしい。
あのあたりにはよくあることなんで、珍しくはないです、と答える長谷川に、ふと文庫が、
「もしかして長谷川」
「なに?」
「お金持ちのボンボン?」
同じ問いを繰り返し尋ねる。拍子抜けして、ため息まじりに答える。
「……あのあたりは農家が多いから、畑売って小金持ちっていうのが多いんだ」
ふんふんと軽く頷きながら、続けて、
「で、長谷川って、お母さん」
「うん」
「文筆業かなにか、やってる?」
なにげないふうで、文庫は言う。
「……え?」
長谷川が硬直する。
「やっぱり。さすがに誰とかまでは分からないけど」
その前にアイスコーヒーを置く。
驚きと、焦りの混じった顔で、長谷川は逆に問う。
「なんで分かったの?」
「なんとなく。生活習慣が不規則な仕事って、自由業の類。あと、母屋を整理できないの、もしかして、ものを動かせないくらい、もういっぱいなのかな。本とか」
「だいたいあってるけど」
「あてずっぽう。うちも本いっぱいだし。本いっぱいの自由業。物を書く仕事って」
「……そうですか」
即座に違うよと否定できなかったことを、ただ後悔するばかり。
「だれにも言わない」
「そうしてくれると、うれしい……」
げっそり疲れた様子の長谷川。ふと、マスターが振り返りざま、
「なんで隠すんだい?」
意地悪そうに言うのだ。
「恥ずかしいとかそういうんじゃないんです。ただ、次に出てくるのは『何を書いてるの?』ですよ、きっと。それに答えるのは、ちょっとぼくの口からは、なんていうか、はばかられます……」
「はは、もうそれじゃ言いにくいようなものを書いてるって言ってるようなものだよ」
「意地が悪いですね……」
「そりゃあ、あれ以来ほとんど来ないからね」
ニヤリと笑うマスター。
「いつもどおり、退屈なもんさ。文庫ちゃんが来てくれるようになってからは、それほどでもないけどね。しかしわたしとしては、文庫ちゃんがきみをからかうさまを見たい。今日やっと叶ったわけだ」
「やっぱり意地が悪いのにはかわりないですよ……」
「ははは」
そこで、文庫がトレイをカウンターに乗せると、長谷川の向かいの席に腰掛け、グラスを指差す。
「飲まないと氷溶ける」
「ああ、うん」
ストローに口をつけ、ゆっくり吸い上げる。
そんな様子を眺めながら、ぼそぼそと文庫は言う。
「アイスコーヒーは氷が溶けると薄くなっておいしくない」
「そうだね」
「アイスクリームとは違うから」
グラスから顔を持ち上げ、ちょっと感心する。
口の端を歪めて、言い返す。
「でも氷が溶けない距離だと苦いんじゃない?」
しかし彼女はばっさりと切り捨てるのだ。
「苦いくらいでいい」
「はははは」
マスターが朗らかに笑う。長谷川としては、笑いごとではないのだけど。
「落ち着いたなら、たまにきたらいい。冷房代浮く」
「来るまでにへとへとになるよ……」
「体力ないんだから」
平坦な声音で言われると、割合、心には痛い。
これからもずっと頭が上がらないんだろうか。心の中でだけ、呟く。
しかし、退屈はしなくて済むのかもしれない。
家に閉じこもっているより、外に出てちょっと溶けるくらいのほうがいいのだ。せっかくの夏なのだから。