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雨と紅茶とルーブ・ゴールドバーグ・マシン

第1話

 手のひらの携帯電話を見る。今日も着信はない。鳴らない電話を見ると、本当にこれを持つことに意味があったのだろうかと疑問の念が絶えない。親に持たされたものだ。緊急時に連絡が取れないのでは困る。持っていないと不自由することもあるだろうから、と。
 けれども、高校に入る頃になって持たされたってしょうがないのだ。卒業する前に渡されていれば、中学の同級生と連絡を取ることもできたかもしれない。
 もっとも、ぼくの場合、こういった「たら」「れば」はあまり意味がないのだけど。
 連絡を取り合うような同級生がいるなら、高校でだってそういった交友関係を築くことができるだろうから。
 悲観はしてない。
 ぼくの場合、はじめからそのつもりがないのだ。
 けど、正確に言うならば、そのときはまだ悲観してなかったってだけなんだ。


 その日の授業も滞りなく終わり、担任が教壇の上からぶっきらぼうに言う。
 この教師は大事なことでもそうでなくても投げやりな口調でしか言わない。ぼくは窓の外をぼんやり眺めながら、耳を傾ける。
「今日から部活動の仮入部期間に入るが、この学校じゃ一年はどこかの部活動に必ず所属しなきゃいかん。一年の間だけでいいから、とりあえずどっか入れ。以上、ホームルームを終わる」
「きりーつ!」
 ……必ず、所属だって?
 誰かと関わり合いになるのを面倒くさいと思ってる、ぼくが?
 部活動?
 冗談じゃない。
 何とか回避できないかとぼくは考える。
 いや待て。
 所属だけでいいんじゃないのか?
 だったら、適当に部名を書いて提出すればいいんじゃないか?
 だめだ。「入部届は当該部活動の部長に提出し、部員登録証を受け取る」とある。つまり、少なくともどこかの部に入って入部希望だと告げなければいけない。
 簡単なことじゃないか。
 どこかの部に行って。
 入部希望だと告げる。
 ぼくはそっとため息をついた。


 。ぼくの名前である。
 入部届の氏名の欄に、とりあえずそれだけ記入する。
 部活動名記入欄の下に、志望動機を記入する欄がある。
 志望動機なんて適当に書けばいいかと思っていたけれど、そういうわけにもいかなくなった。これを渡して、部の代表に承認してもらわないといけない。これがただ担任に渡すだけなら、もっともらしい理由で充分だった。しかし実際に部に所属している人間に渡すとなると、話は変わってくる。
 二年生以降も部活動を続けている人というのは、それだけその部に思い入れがある人だ。
 適当な口実で、とりあえず籍だけ置かせてください——はい、いいですよ、とは言ってもらえないような気がする。どころか、きっと怒るだろう。表に出すかどうかは別として。
 できるなら、適当な口実でも承認してくれそうな部。
 そう、ゆるそうな部がいい。
 幸い、この学校にはびっくりするくらいの数の部活動がある。中にはそういうゆるい部だってあるはずだ。


 この学校にはびっくりするくらいの数の部活動がある。
 それは、旧校舎をまるまる文化部の部室棟代わりにできるくらいってことだ。えっ、こんな部活まであるの、っていう部まである。同じような名前の部もいくつもあったりする。
 そういうわけでぼくはいま旧校舎にいる。
 いくつかの部をあたってみて分かったのは、この学校にびっくりするほどの数の部活動があるのは、個人的な活動のために部を設立する人間が後を絶たないからで、つまり部活動に熱心な人間がそれだけいるからだということらしい。さっきいったとおりニッチな部も数多く存在するから、そういった部に入るためにわざわざこの学校を志望するという例もあるようだ。
 ぼくの場合は、自身の学力水準と、通いやすい立地という二つの条件に合致するのがたまたまここだったからこの学校を選んだというだけなのだ。
 しかしそうであるなら、部活動に対して消極的な生徒が、ただ所属するためだけのがあってもおかしくない。
 結論から言えば、こちらも外れだった。
 昔はあったらしい。しかし、二年以降部に所属する必要がない、ということもあって、いつのまにか自然消滅してしまったという。なるほど、さもありなん。
 いっそ自分でそういう部を作るか。
 いや……部の設立手続きをしてまで、というほどでもない。
 ごくごく消極的にいきたい。ぼくは面倒ごとを回避したいだけだ。そのために別の面倒を背負い込むなんて本末転倒ではないだろうか。
 気を取り直して、もとの方向性に立ち戻ってみる。ゆるい部活動だ。
 運動部はだめだ。
 部室棟に行くまでに新入生狙いの勧誘がひっきりなしなのは、遠目に見て確認済み。
 ぼくみたいなやる気のない生徒のために時間を割いてもらうのも悪い。
 文化部がいい。
 だからぼくは、はじめから文化部の集まる旧校舎にやってきていたわけだ。
 来ても来なくてもいい、くらいの部がいい。それなら気兼ねなく幽霊部員になれる。
 人数が少ないところはちょっと困る。あんまり期待されると困るというのがあって、多人数の部でぼくひとりいなくてもそれほど心は痛まない。けれども少人数の部ではそういうわけにもいかない。ぼくにだって良心くらいはある。
 部名から推測するのは難しい。
 ここまでいくつか部を当たってみて、メジャーな部が熱心なのはもちろん、ニッチな部もニッチだからこそ静かな熱意を抱えていたりすることが多い。
 逆にメジャーな部のほうがかえってゆるそうだったりする。人数が多いところも、人数が多いからこその余裕ゆえにゆるい、というところもあるだろう。
 そういう部を期待しているのだけど、零細部活動ばかりが並ぶ。
 もしかすると、ニッチな部が多すぎてメジャーな部が部員を確保できていないんじゃないか。小さなパイの取り合い。ありえそう。
 わずかな諦念を抱きながらため息をつき、ふと、ちょうどすぐそばの部室の表札が目に入った。
 “JOKER”。
 情報科学研究部、という文字に斜線が引かれて消されていて、その上に、たぶん油性マジックあたりでJOKERと書かれている。適当に書き殴った、という感じがする。
 この投げやりさはちょっと緩そうだ。
 小さな部だけど、細々と活動している、そんな感じで、できれば任意参加が望ましい。
 でもこの静かな雰囲気はちょっと期待できそうだ。
 ぼくは意を決してノックする。
 コン。
 ちょっと弱すぎたかもしれない。
 コン、コン。
 しばらく待つ。
 返事は、ない。
 聞こえてないのだろうか。
 もう一度。
 コン、コン。
 反応はない。
 コンコンコン。
 ただのぶしつのようだ。
 ……もしかして誰もいないんじゃないか?
 ドアに手をかける。
 力を込める。
 ガラ……。
「開いた……」
 そっと様子を伺う。中には誰もいない。
 留守だろうか。
 鍵はかけておいたほうがいいと思う。
 あるいは、はじめから鍵なんて掛かっていなかったか。
 だとすればずいぶん無用心だ。机の上に、液晶ディスプレイが鎮座している。その手前にキーボード。どちらも持ち出そうと思ったら、持ち出せるだろう。キーボードはともかく、液晶ディスプレイはかなり高価な部類に入る。机の下を覗くと、タワー型のPCケースが置いてあった。こちらは持ち運ぼうと思っても、ちょっと難しそうだ。
 断っておくが、ぼくは泥棒に来たのではない。
 もうちょっと周りを見てみよう。
 部屋に誰か人がいたような気配はない。荷物も特に置いてない。
 もしかして幽霊部?
 部員がいなくなったまま、部室だけが残っている……。この学校には大小様々な部が数え切れないほどある。管理しきれなかったとしても、ぼくは疑問に思わないし、きっと誰も責めもめもしないと思う。
 なるほどしかしこれは都合が良いかもしれない。
 部員登録証は、部員登録申請用紙を生徒会に提出し、それが受理されて、生徒会から各部に発行される、という流れらしいから、まずはここから部員登録申請用紙を手に入れる。その上で必要事項を記入して生徒会に提出する。部員登録証を発行してもらう。それを提出すれば、晴れてぼくはこの部に入ることができるわけだ。どんな部か知らないけど。
 それにしてもなんでこんなに回りくどい手続きをする必要があるのだろう。
 とりあえず部屋の中を探ることにする。
 部員登録申請用紙、だ。机の中に入っているだろうか。ない。棚はどうだろうか。引き出しがあるから、そこかもしれない。中を見る。ない。ファイルに挟んで棚に、とかかもしれない。それらしいファイルは、ない。
 それにしても何だろう、この棚は。
 この部は、なんという名前だったか。
 情報科学研究部、だったか。情報科学。分かる。平たく言ってしまえばコンピュータを使った分野の学問のことだったと思う。だから、その類の関連書籍が並んでいるんだろう、と思っていた。そんなことはなかった。
 そこに置いてあるのは、学術書や参考書の類じゃない。読み物だった。これがまだゲームの攻略本なんかなら、なるほどコンピュータを使う部活っぽいという気になるのだけど、そういうのじゃない。そういうのよりは、もうちょっと真面目っぽい。
 並んでいるのは、小説だった。
 ここ、文芸部じゃなかったと思うんだけど。
 ぼくはこれでも読書は好きである。消極的ではあるけど、それはコミュニケーション全般の話だ。自分ひとりで完結する娯楽。ぼくにとってこれほど好ましいものはない。
 タイトルを目で追う。
 ダン・シモンズの『ハイペリオン』だ。『エンディミオンの覚醒』までが一緒に並べられている。なんだか、いかにもという感じがする。もしもここが文芸部だったならなおさらそう思っただろう。『涼宮ハルヒ』シリーズが置いてあればよりいっそういかにもという感じなのだけど、あの赤い背表紙は見当たらない。
 ハインラインの『夏への扉』。コードウェイナーの『ノーストリリア』。チャンの『あなたの人生の物語』。イーガンの『順列都市』、『ディアスポラ』なんかが置いてあって、やたらとイーガンが多いな、確かにイーガンは情報科学的な作品をよく書いているような気もする、と思ったところで、この本棚がいかにもぼく好みになっているらしいということに気づく。もちろん今挙げたうち、読んだことがあるのはひとつふたつに留まる。海外作品が多いかと思うと、そうでもない。文庫も単行本も一緒に棚に入れられているのがちょっとぼくの性格上落ち着かないのだけど、『あなたのための物語』が置いてある。この作品もコンピュータ絡みだ。こっちは『星の舞台からみてる』。これも、ネットワーク社会の未来を描く作品だったな。
 待てよ、だったら『夏への扉』も、エンジニアが主人公だ。
『ノーストリリア』だって、コンピュータが物語の前半において重要な役割を担っている。
 いや、『ノーストリリア』みたいなSF要素の集合的な作品のことを言うと、『ハイペリオン』からの一連の作品だってそうだ。
 情報科学って、そういう意味なのだろうか。
 むしろこれは空想科学じゃないだろうか。うん、揃いも揃ってSFばかりだ。
 ああ、しかし今こうして目の前に置いてあるのなら、ぼくは手にとって読めるではないか。そうだ、ぼくは文芸部に入ればよかったのだ。しかし、文芸部を覗いてみたら女の子ばかりでとてもぼくが入れる雰囲気ではなかったことを思い出す。ぼくがあの空間に入るのはどう頑張ったって無理だ。男同士ですら無理なのに。
 別に文芸部である必要はない。この部に入ればいい。この部室の主とは趣味が合いそうな気もする。少なくともぼくにとってはこの本棚のラインナップは興味深い。非常に興味深い。
 そのつもりなら、部員登録なんたらのために物色する必要はなくなる。思い切ってここにある本を読んだら良いんじゃないだろうか。ほら、部の備品って、多分公共の福祉のために広く開かれるべきだし。
 ぼくはそう思って、イーガンの『祈りの海』を手に取る。いまから長編に手を出すのは無謀だから、下校時間までに一編くらいは読みきれるであろう、短編集に手を出したのも、理に適っているのではないだろうか。
 この本もずっと読みたかったのだ。しかしSFは決して安くない。少なくとも、ちょっと前まで中学生だったぼくには、気安く手を出せる値段ではなかったのだ。ぼくはそこまで積極的な読書好きというわけではなかったから、図書館へ行こうとは思わなかった。学校の図書室ですら、そんなに多くは利用しなかった(正直に言おう。要するに貸借手続きが面倒くさかったのだ)。友達に借りる? はは、ぼくに友達なんているわけがない。もちろん、いたとしても読書が趣味でSFを好んで読む、という友人は相当得がたいのではないだろうか。なにしろぼくがこんなである。
 何にしても読み放題だ。ぼくは『祈りの海』を持ってパイプ椅子に腰掛け、さあ読まんと、おもむろに本を開き、
 ガラッ……。
 部室のドアが開いた。
 慌てて本を閉じて机の上に置き、ぼくはそれを隠すように立ち上がって、部にやってきた何者かを見る。
 背の低い、小柄で、華奢な女の子だった。
 制服を着ているから、間違いなく生徒だろう。
「……」
 彼女は無言でじっとぼくを見ている。
「あ、あの、その」
 言葉が出ない。咄嗟だったからというわけじゃない。ぼくはだいたいこうなのだ。
 ぼくの前を横切り、彼女は液晶ディスプレイのもとへ。椅子を引き、身を屈め、机の下に手を伸ばす。多分PCのパワーをONにしたんだと思う。ビープ音が鳴る。
 それから席に着き、ディスプレイのスイッチを入れる。
 その間、ずっと無言だ。
「えっと……」
 ぼくが口を開くと、彼女がぼくのほうを見た。
 彼女は見学希望ではない。ここまでの所作は一貫して慣れたものだった。この部の住人とみて間違いない。
 とすれば、ぼくのほうは彼女からすれば見知らぬということになるだろう。弁明の必要があるかもしれない。というか、半ば無意識的に、ぼくは弁明するところだったと思う。
 しかし物言わぬ彼女の視線を真っ向から浴びて、ぼくは口ごもってしまう。こうやってじっとただ見られているだけというのは、すごく話しにくい。そうでなくたってぼくは口下手なのに。
「その、こ、この部活のひと? だよね?」
 やっとのことでそれだけ言う。
 彼女は。
 小さく
 それだけだった。
「ええっと……」
 何か言えよ! 非コミュかよ!
 しかし予想はできたはずだ。この本棚のラインナップで。ぼくがそうなのだ。ぼくみたいのが、あるいはぼくよりもっと重度のぼっちがこの部室の主でも何の不思議もないのだ。
 気まずさに背中を押されるように、ぼくは次の言葉を必死で考える。考えれば考えるほど、喉のほうに何かせりあがってくるような感じで、すごく気持ちが悪い。
「ぼ、ぼくは、えっと……そう! この部に見学に来てて……」
 彼女は言葉の途中で、鞄の中をごそごそとまさぐり始めた。
 人の話聞けよ!
 しかし、どうやら話を聞いてなかったわけじゃないらしい。
 彼女がすっと何か差し出した。
 紙?
 何かの用紙だろうか。
 受け取る。
 見覚えがある、というか、一番上に「入部届」に書いてある。
 まだ入るって言ってないよな?
 受け取ったままじっとしていると、彼女が、ふと何かに気づいたように、また鞄の中を探り始めた。取り出したのは、ペンケース。
「い、いえ、あの、か、書くものも、持ってますんで……というか、あの、言いにくいんですけど、まだ入部するって決めたわけじゃないっていうかその」
 じっとぼくの顔を見る。
 気まずい。
 それから視線を落とし、机の上の見る。
 あ。
「……あっ」
 彼女が見ていたのは、『祈りの海』だった。ぼくがさっき読もうとしていた本だ。そう、ぼくがさっき勝手に読もうとしていた、本だ。
「それ」
「え、あ、いや、気になって、つい……」
「よかったら貸すけど」
「え?」
 予想外の言葉だった。
 部の備品を勝手に触ったことを咎められるとばかり思っていたから、つい間の抜けた声を上げてしまった。そこで気が緩んだのも間違いなかった。
「そのかわり」
 彼女は巧妙だった。
「これに記名して。そうすれば、不問にしてあげる」
 ぼくにはもうどうすることもできない。
「なるほど、ケイスケか……じゃあ、よろしく、ケロスケくん。きみは今日から情科研の部員だ」

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