1.
領主の娘とパン
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まぼろし国の食卓より

15. レスブルックの市

 ぼくがじとっとした目を向けると、リリーはこほんと咳払いをする。

「そのベリーとハーブと……いい匂いのキノコは、どうするの?」
「ベリーは、乾燥させて保存かな。ジャムにしてもいいし、ソースに使ってもいいけど、乾燥させておくのが一番日持ちするから。パン作りにも使うかもしれないし」
「パンに? 生地の中に入れたり?」

 ゆっくり首を振る。

「それは、まあ、お楽しみってことで」
「まあいいわ。今聞いてもわかんないと思うし。ハーブはどうするのかしら。この屋敷にも、ハーブはあると思うけど」
「あるね。でも、せっかく新鮮だから、ぜんぶ市場に持っていこうと思ってる。そういえば、屋敷ではソーセージを作ったりしないよね」

 屋敷で食べるソーセージもハムも、市場で買ってきたものだ。クーシェルの腕を考えると、作れないことはなさそうだけど。

「ああ、うん……それね。わたしは作ったらいいと思っているのだけど。いい匂いのキノコは?」
「クロユリタケね。これも、いくつかは市場に持っていくつもり。なかなか採れないし、けっこう高く売れるからね」
「そうなんだ。いい匂いだものね」

 やたらいい匂いにこだわるな。

「乾燥させればこっちも日持ちするから、屋敷でも……」
「料理に使うなら、ぜったいにわたしにも食べさせてよね!」
「わかった、わかったから!」

 言い終わる前に詰め寄ってくるリリーの顔がすぐそこにあって近い、うわ近い頬やわらかそうだな近い唇ぷくっとしてるな近い近い、顔が近いって!
 リリーも……その、女の子の匂いがするんだよ……しかもどこもかしこもやわらかそうなんだよ……〈ぼく〉には毒なんだよ……。

「……ねえトーマ、顔が赤いけれど……だいじょうぶ?」
「だ、大丈夫だから」

 リリーをそっと押し退ける。ぼくの顔を覗き込まなくていいから。まつげ、長いから。目、吸い込まれそうだから。心臓に悪いから。

 おかしい、〈わたし〉は社会の荒波に生きる現代の超人サラリーマンだったはずなんだけど。意識がどうあれ、ぼくの感覚はかなり〈ぼく〉に引きずられる。それはしょうがない。ぼくは〈ぼく〉なんだから。だいたい〈わたし〉にしたってこんな洋画に出てくる子役みたいな美少女をこんなに間近で見たことなんてないんだから、多少挙動が不審になってもそれはしょうがないことなんじゃないか!?
 取り乱した。

 気を取り直して。
 いや、でも、リリーのための料理、か。

「……料理は、ぼくが関われるのは使用人の食事だけで、リリーの分は作れないから、試食してもらうって感じになるけど」
「ええ、もちろん。それでいいわ。それに……いつかはわたしの分も作ってくれるようになる、ってことでしょう?」
「そう、かな。うん。そうなるつもりは、ある」
「はっきりしない返事ね?」

 これからどうするか、ぼくはまだ決めかねていたから「こうだ」と言い切ることができなかった。いや、別に約束するわけじゃないから、こうするつもり、っていうぶんには何言ってもいいとは思うんだけど。
 それに、そのほうが、どうしたいかわかるかもしれない。

「ま、いいわ。でも、市場に行くなら、わたしも連れて行くこと」
「わかってるよ」

 それはもう、肝に命じてるので。


 翌朝、ぼくとリリーはレスブルックの市場にやってきていた。

 レシャー男爵領の人口はおよそ一万人。男爵の屋敷のあるレスブルック市の人口は二百人。男爵領内の都市人口は合計で五百人ほど。レスブルック市以外に都市といえる規模の町は二つある。第二の都市ロングストン市が百五十人、第三の都市ルーブラ市が百二十人。残りは領民は農村で暮らしている。

 男爵領の中央に位置するロングストンや、男爵領の玄関口になるルーブラよりも、男爵の屋敷のあるレスブルックが、領内ではもっとも町として栄えている。牧畜の民が伯爵領を越えてやってくるから、毛織物が盛んだというのは一つ関係しているかもしれない。実際レスブルックの市には、毛織物の品がたくさん並んでいる。
 ロングストンにもルーブラにもこれという特産物はないそうだから、あくまでレスブルックまでの中継点という性格が強いのかもしれない。

 ところで、そのレスブルックでも人口はわずか二百人。都市にしては人が少ないと思うかもしれないけれど、人口一万人を越える都市はごくわずかにしかない。
 人口一万人未満の中小都市も、そのほとんどが人口二千人に満たない小都市。
 男爵領にある都市のように、人口五百人を切る零細都市も少なくないというのが実際のところだ。
 これは中世ヨーロッパの都市と比べても特に低い数字というわけでもなさそうだ。たとえば十一世紀のドイツは五百人未満の都市が八割。村に市壁を巡らせたと言っていい。レスブルックも、だいたいそのような雰囲気の町だ。

 人口二百人でも、ひとところに人が集まれば活気がある。実際には農村からも人が集まってきているというのが正しいのだけど。

 野菜や果物、加工肉、布に毛織物、いろいろなものを売る露天が並ぶ。
 なんだかお祭りみたいな雰囲気があって、悪くないんじゃないかと思う。

「でも、本当によかったの? わたしがお金を出してもよかったのだけど」
「そういうわけにはいかないよ」

 市場で食材を買うにあたって、試食する立場のリリーが「わたしが食べたいのだから材料費くらいは出してもいいんじゃないかしら」と言い出したのだけど、これは固辞させてもらった。
 試行錯誤の過程でどの食材をどれだけ買うことになるかわからないから、最初からリリーに頼るわけにはいかない。本当に必要なときに、リリーが自由に使えるお金がもうありません、なんてことになったら困るのだ。何かあったときのためにちゃんと残しておいたほうがいい。
 というようなことを説明して、納得してもらった。

「気にしなくてもいいのに」

 納得して……もらえてない気もするけど。

「まずはマーセンスから売ろう。すぐにでも欲しい人がいると思う」

 物を売るには二通り。
 自分で店を開いて売る。
 あるいは、他の店に買い取ってもらう。

 自分で市場に店を出して物を売るには、出店料を納める必要がある。
 ちょっとしたものを売るだけなら、店を出すより他の店に買い取ってもらったほうがいい。買い取り価格は市場価格よりも低くなってしまうけれど、出店料や店を開く労力を考えれば妥当なところだと思う。
 香草や野草は薬草商が取り扱う。レスブルックの市場にも、二、三軒、薬草商の露店があるけれど、どこがいいだろうか。
 店先に並んでいる商品を見比べてみても、ぼくは特に目が利くというほどでもないから、どの店に買ってもらうのがいいのか。
 ……いや、どこも大差はなさそうな気もするな。

 だったら。

 ふと思いついたので、一番無愛想な店に決めた。
 店へと向かおうとするぼくの袖を引っ張り、

「どうして一番危なそうなお店にするのよ!」

 リリーが小声で叫んだ。

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