1.
領主の娘とパン
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まぼろし国の食卓より

3. 泥の味がするっていうけど泥食べたことあるの?

 を飲み込むと、もう一度をスプーンですくい、一口、……。
 咀嚼……?

 咀嚼も何もない。

 これは、やっぱり……泥……味のしない泥……いや泥食べたことないけど……いやある……雨上がりの日にぬかるんだ土に足を取られて頭から地面に突っ込んだら口の中に泥入った……泥テイスティングしたことある……。

 ともかく。
 グリュエルを食べた感想を端的に言うなら、味のしない泥。
 きな粉をお湯で溶いた食べ物を想像するといい。だいたいそのような食感がする。
 味はというと、ほのかに甘いような気もする。ひとつ言えるのは、薄めた砂糖水は水よりもまずい。塩が効いていればまた違うのかもしれない。

 麦の粥だと言っていたけれど……この世界で麦といえばヘラムギのことだから、これもヘラムギだろう。ヘラムギの粒は大きいし、火も通りにくいから、そのままでは粥にしない。
 庶民は荒く砕いた麦粒を薄い出汁のスープで煮てふやかした粥を食べる。
 都市住民が同じかどうかはわからないけれど、牧民はそうだったし、〈ぼく〉の知る範囲では農民もそうだった。

 そういえば〈ぼく〉の知識によれば上流階級では粉を粥にするようだけど、それがこれだろうか。正直なところ、〈ぼく〉の記憶にある庶民的な粥のほうがおいしいんじゃないかなあ。

「口に合わなかったかしら」

 表情に出てしまったのか、女の子が苦笑いを浮かべる。

「でも、それは薬だから。しっかりと食べてね」

 なるほど。病人食は、たしかに薬かもしれない。
 混ざりもののない白いヘラムギの粉は貴重だ。
 そんな貴重なものを食べさせてもらっていると思うと、なんだか申しわけなくなってしまった。

「……ありがとうございます」
「いいのよ、気にしないで。それから、あんまりかしこまらないで、楽にして……ええと、あなたが普段しているみたいに……そういえば名前をまだ聞いてなかったかしら。わたしはリルエット。リリーって呼んで。あなたは?」
「ぼくは、あ、えと」

 どう名乗ればいいのか少し悩んだ。
 けれども、ぼくは、ぼくだ。

「……ぼくは、トーマ」

〈わたし〉は死んだ。そして〈ぼく〉は試練は果たせなかった。
 だから、ただのトーマからはじめよう。

「トーマ……変わった名前ね」

 トーマ。トーマ。口の中で何度も繰り返しているようだった。
 それがすこしむず痒い。

「じゃあトーマ。いつものトーマみたいに、わたしに接すること。いい?」

 年頃も近いし、それは構わないのだけど、いやちょっと待てよ。
 不意に大事なことを思い出した。

「あの……もしかして、きみがぼくを助けてくれたの?」

 尋ねると、リリーは胸を張って頷いた。

「ええ。この間の地揺れで、東の山道が崩れて、あなたはそれに巻き込まれたみたいね。お医者様の話では、あの崩落に巻き込まれて生きているのが不思議だ、死んでいてもおかしくないって聞いたわ。それから三日も眠っていたけれど。でも、ちゃんとこうして目を覚ましたのだし」

 うん、ともう一度頷いて、確かな口調で彼女は言う。

「やっぱり、あなたはちゃんと助かったわ」

 あのときの声は、やっぱり彼女のものだったのだろうか。いや、それよりも。
 彼女に向き直り、背筋を伸ばして、それから、頭を下げた。

「助けてくれて、ありがとうございます」
「やめてよ、なんだかくすぐったいわ。頭をあげて。わたしは当然のことをしただけなのだから」
「でも、ぼくにとってはきみは命の恩人だから……」
「いいから、頭をあげなさい。恩を感じるなら、そうね。別の形で返してほしいわ」
「別の形?」

 顔を上げると、彼女はにんまりとした笑みを浮かべていた。
 そうして不敵に笑うだけで、答えてはくれなかった。

 粥を食べ終わって、去り際にリリーが言う。
 ちょっとだけ真剣に、けれども気安い言い方で。

「今は、わたしにお礼とか恩返しとか考えなくていいから。ただ傷を治すことだけを考えること。いい?」

 ぼくは素直に「わかった」と答えた。
 確かに、恩を返すにもこの身体ではどうしようもない。
 それにしても、貴族のお嬢様にしたって、まるでお姫様みたいな女の子だ。
 そんなことを考えながら、ぼくはほんのすこし苦笑して、それからゆっくりと身体をベッドに横たえる。
 すこし気だるさがある。けれどもそれは起き抜けに感じたものよりは、穏やかで、あたたかいものに思えた。
 お腹が満たされたからか、それとも、やっぱり単に話疲れたのかも。

 自然とまぶたが降りて、ぼくの意識は眠りに落ちていく。


 次の日から、リリーは一日に二回、味のうすい白い粥を持ってきてくれた。
 食べ終わったら、少し話をする。リリーはぼくの話を聞きたがった。
 どうして髪が黒いのか、瞳も黒いのか、どこから来たのか、何をしているのか——実のところ、最初の三つには答えられなかった。実際わからなかったから。
 彼女は不満そうにしていたけれど、ぼくが牧畜民の子供で、もうすぐ一人前のになるところだったというと、まんまるな瞳を大きく見開いて、もっと話を聞かせてちょうだいとせがんだ。

 ぼくの傷が癒えるまでの数日間、ぼくは彼女にいろんな話をした。

「ラクやマウシカって人の言うことをちゃんとわかるのかしら」
「どうだろうね。言葉は通じないけれど……でも、彼らのやりたいこととか、嫌がることはわかるよ。だから、こうしたらついてきてくれるっていうのもわかる。でもね、それは人間でも同じなんだ」
「ラクやマウシカと、人間が?」
「人間にもやりたいこととやりたくないことがあるでしょう。言葉が通じるから、言葉で言えばわかるだろうって思いがちだけど。人間だって、無理にやらされるより、その気になってやってもらうほうが、ちゃんとやってくれるんじゃないかな」

 これは〈ぼく〉のというより〈わたし〉の考えだけど。
 しばらくリリーはぼうっとしていたけれど、やがて大きく息をついて、そしてゆっくりと口を開く。

「……トーマって、ときどき隠者みたいなことを言うのね」
「どういうこと」
「本当にわたしと同い年よね?」

 リリーは十三歳。今年の終わりに十四歳を迎える。ぼくも今年いっぱいで十四歳になる予定だ。正確にはよくわからなくて、そういうことになってるってだけだけど。ぼくがいつ生まれたのかはっきりしてなくて、誰も知らなかったから。

「まあでも……そうかも。言えばわかるって思ってたけど。そうじゃないって思ったほうが、いいのかもしれない……特に、わたしたちは」
「リリー?」
「なんでもないわ」

 いつになく真剣な顔をしていたから、不思議に思ったのだけど、なんだかはぐらかされた気がする。
 それに、リリーだって、十三歳の女の子にしては、ずいぶん大人びている。
 元の世界の十三歳の女の子だったら、どうだろう?
 いや、そうでもないかな……年相応な気もしてきた。

「いま変なことを考えていなかった?」
「……そんなことはないよ」

 けっきょく追求から逃れることはできなくて、思っていたことを伝えたら、わかりやすくを膨らませて口を聞いてくれなかったけど、次の日にはけろっとした顔で粥を持ってきた。
 そういうところだと思う。

 そうこうするうちに、ぼくの体もすっかりよくなって、立って歩いても問題ないくらいになったある日に、彼女はぼくに言ったのだ。

「わたしに恩返しがしたいトーマに、その機会を与えましょう」

 小さな胸を張って、リリーは自信たっぷりにぼくに言う。
 ぼくは油断していたと思う。
 告げられたのは、まったく突拍子もなくて、まったく予想してないことだった。

「レシャー男爵リサンバー家の末女、リルエット・リサンバー・オート・レシャーとして、あなたに命じます。
 トーマ。あなたはわたしの従者になりなさい」

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