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領主の娘とパン
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まぼろし国の食卓より

プロローグ

 異世界での生活をはじめて一年。

 ようやく、ようやく最初の目標が果たされつつある。

 今、ぼくの目の前には、ふっくらと焼き上がったがある。

 ——で文化的な食事をる。
 それがぼくの目指すものであり、その第一歩がこれだ。

 この世界にやってきてから、ぼくはふっくらと膨らんだパンというものをまるで見ていない。あるのは硬くてボソボソのパン……この世界ではバニッジと呼ばれているものだけだ。
 そんなのはとうてい耐えられなかったから、最初の目標はちゃんとしたパンを食べることに決まった。バニッジを食べてすぐに決まった。

 いろいろ試してわかったんだけど、この世界に膨らまないパンしかないのはこの世界のパンを焼く技術が未熟なんじゃなくて、問題があるのは穀物のほうだった。
 この世界で食べられている麦は、ヘラムギというコムギとは異なる種のもので、コムギのようにパンを膨らませるのに適したグルテンを持たない。バニッジがふっくらふわふわにならないのはそのせいだ。

 それでもなんとか、こうして見た目は膨らんだパンにすることができた。

 そう。
 このパンは、この世界のひとたちにとってはじめての膨らんだパンである。

 焼き立てパンの芳ばしい香りがをくすぐる。

「これで成功なの?」

 傍らに立つ女の子……リリーが、その真っ青な瞳をパンに向ける。小首をげ、頬にかかる白金色の髪を払いのけながら、ぼそりとつぶやく。

「これが、パン? バニッジとはぜんぜん違うわね。こんなの見たことないもの」
「もちろんこれはバニッジじゃないよ」

 リリーは男爵家の令嬢だ。
 平民よりは上等な食事を食べていると思うけれど、そのリリーでも丸パンを見てバニッジだというのだから、平民だから膨らんだパンを目にすることがない、というわけではなくて、やっぱりこの世界にはパンはないってことなんだと思う。
 ひょっとすると王族くらいになれば話は違うかもしれないし、この国の外だとどうかな。ぼくは知らない。でも、少なくともこの国でヘラムギの粉をこねて焼いたものといえば、バニッジなのだ。

 バニッジは貴族以外では主に行商人が食べる。
 ヘラムギは粘り気がないだけでなく吸水性にも乏しいので、ヘラムギで作ったパンはホロホロと崩れやすく、食感もパサついていて粉っぽい。
 でも、水気がなくてみにくいし、調理の手間もかからないので、食味が悪くとも旅の中で腹を満たすには向いている。

 でもやっぱり……バニッジはバニッジで、パンじゃない。

 いちおう穀物の粉を水で練って焼き上げたものだから、確かに分類上はパンになるけど、あれを食べてパンだっていう人は、日本にもイギリスにもフランスにもドイツにもいないと思う。バニッジに比べたら日本の食パンとヨーロッパのハードパンの違いなんて笑顔で「パンの多様性だね!」って言い切れる。

 バニッジはでんぷんを焼き固めた塊状の何かって言ったほうがいい。

 あらためて目の前のパンをじっくりと見る。

「見た目は一応、パンだね」

 膨らまないはずのヘラムギで作った、膨らんだ丸パン。

「味がパンかどうかは、食べてみないとわからない」
「……味見はちょっと……いえ。かなり勇気がいるわね」

 リリーが渋い顔で言う。
 はじめて見る食べ物に対する抵抗感、だけではない。
 彼女はぼくがパンを作るところを見ていた。だから無理もないとは思う。
 ぼくはまったく気にしないんだけど、この世界の人にとっては想像しがたいことなんだろうなと思う。
 でも、今はそんなことより一刻も早くパンの味を確かめたい!
 ぼくは彼女に構うことなく、丸パンを手に取る。焼き立てほかほかだ。それにふわふわでやわらかい。

「パンだ……」

 一口大にちぎる。
 もっちりとした感触が指先に伝わる。
 ちぎったところから湯気と甘い香りがこぼれだす。
 パンの香りだ。
 コムギとはちょっと違うけど、パンの香りに違いなかった。

 これはもう……パンですよ。パンそのものですよ。勝利宣言を出そう。

 勝利の味をかみしめようと、パンを口へと運ぶその寸前、ふと思う。

 最初の一口は、ここまで手伝ってくれた最大の功労者に食べてもらったほうがいい。ぼく一人の力では成しえることができなかったのだから。

「はい、リリー」
「や、やっぱり私も食べなきゃダメ……よね」

 パンのかけらを受け取ると、リリーは困り顔でぼくに問う。
 いやあ、でもこれ食べないと後悔するやつだよ。

「せ、せめて一緒に食べない? 私ひとりでこれを食べるのは、ちょっと」
「そう? じゃあぼくも食べるね。正直めっちゃ食べたかったんだよね」

 リリーにパンのかけらを渡すと、わくわくしながら自分の分のパンをちぎる。あらためていいもっちり感。

「それじゃ、せーので」
「うん……せーの!」

 ぱく。

 もぐ……もぐ……。

 こくん。

 思わず声が出る。

「え、やば!」

 知ってる味だ。知ってる味だけど……。

「うま。なにこれ。うま……!」

 めっちゃうまい。
 え、たぶんこれ完璧にパンだと思うんですけど。パン屋開けると思うんですけど。朝のバラエティで行列できる店として紹介してもらえると思うんですけど。テレビとかこの世界にはないですけど……。

「……ふわふわして……むともちっとしていて……うん……? うーん……」

 いっぽうのリリーは、首を傾げている。
 おそるおそるパンをしながら、うーんうーんとっている。

「も、もう一口もらってもいい?」
「どうぞどうぞ」

 ちぎって渡しつつ、ぼくももう一口ちぎって食べる。
 うまいうまい。間違いなくうまい。これはパンですわ。パン祭り開催ですわ。

 リリーは、ぼくからパンをひとかけら受け取っては食べて首を傾げ、また受け取って食べて首を傾げてを繰り返し、結局そうするうちにパンを食べきってしまった。
 そうしてゆっくりと口を開く。

「はじめて食べる味だったけど……たぶんおいしいんだと思う」

 ほかの人がどう思うのかはわからないけどね、と付け加えてから、続ける。

「でも、あったかいし、噛むとほんのり甘い。ぽろぽろ崩れたりしないし、ぱさぱさもしてない」

 そこにあったパンの感触を思い出すようにじっと手のひらを見つめて、ひとついてから、確かな声で彼女は言った。

「わたしはおいしいと思った」
「よかったー」

 ぼくは心からする。
 味は九割が慣れだ。慣れ親しんだものをおいしいと感じる。逆に未知のものはおいしくないとかまずいとかって感じることが多かったりする。だから、正直こんなにおいしいパンだって、ぼくがその味に慣れてるからってだけなんじゃないか、そういう不安があった。
 けど大丈夫だった。ふわふわもっちりのよさが伝わった。バニッジのほうがいいなんて言われたらどうしようかと思った。

「うん……これがパン、なのよね。バニッジじゃなくて」
「そう。バニッジじゃなくてパン。たくさん出来損ないのパンを作ったけど、これがはじめての本当のパンだよ」

 ありがとう、たくさんの失敗作たち。
 きみたちのおかげで、こんなにおいしいパンが作れたよ。

「でも、あれを使ってるのは、ちょっと……」
「食べたらどうってことなかったでしょう?」
「それは、そうだけど……知ってしまうと考えてしまうもの」

 リリーは複雑な表情で「おいしかったけど」と「あれを食べてしまった」とを交互に繰り返しつぶやいている。
 いまは無理でもいつかはリリーにも気にせずに味わえるようになってほしいなあ。

 さて、ここで問題です。
 ぼくは一体どうやって膨らまないヘラムギでふわふわのパンを作ったのでしょう。

 正解は——ぼくがこの世界に来る経緯、この世界に来てからのこと、それから、この世界のことをお話した後にでも。

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