城塞都市ニルシュヴァール。
ニールス川のほとりに築かれた人口 3,000 ほどの中都市で、その周囲のあちらこちらに無数の農村があって、羊を飼い、小麦を育てている。
中世ヨーロッパでは都市の人口の 10 倍の生産人口が必要だったらしいから、周囲の農村を含めた都市圏の総人口はおおよそ 3 ~ 40,000 人になる。
都市を中心に周辺の農村地帯を含めた範囲を都市圏と呼ぶとして、その都市圏の広さは歩いた距離の感覚から言うと半径 15 ~ 20 km くらい。
半径 15 km と見ると面積はおよそ 700 km² で琵琶湖よりちょっと広いくらい、半径 20 km なら面積およそ 1,200 km² なので東京二十三区の倍くらいの広さだ。
そう考えると結構広い。
広いけど、その広い空間にまばらに人が住んでいるので、実際の人口はそれほどでもないかもしれない。
ただし、それは今の価値観で判断した場合の話だ。
今いるこの世界この時代において、この周辺地域がどの程度の規模なのか、評価を下すのは早計だろう。
参考までに、中世のヨーロッパでは、都市の人口は多いところでは一万人を超えていたけれど、たとえばドイツではその数はわずか 15 都市に留まり、ほとんどの都市は 2,000 人に満たない小都市だったと言われている。
その基準に照らせばニルシュヴァールは中都市で、それなりの大きさの都市だ。
それなりの大きさの都市だけれども、それ以上に、発展の可能性を秘めた地理地勢である。
森あり、川あり、肥沃な草原地帯あり、家畜あり。
これで鉱物資源に恵まれていたら言うことなしなんだけども。もっとも、もしそうならこの程度の規模に収まっているはずがないので、納得といえば納得だ。
充分、よい立地だ。
というか、かなり恵まれている。
神立地といって差し支えないだろう。
その神立地の中枢であるところの城塞都市ニルシュヴァールの門の前で。
俺は衛兵に止められていた。
困惑する俺の脇を、羊を連れた羊飼い風の男が通り抜けていく。
羊でも通行が許可されているのに人間の俺はここで通せんぼだ。
納得がいかない。理不尽だ。
と思ったら、羊飼い風の男に続いて、商人風の男が門を通り抜けていった。
通り抜けていったというか、一度立ち止まって、通り拔ける前に衛兵に何か札のようなものを見せて、それから門の中に入っていった。
その一連の流れがあまりに滞りなく滑らかだったので、ぼうっと眺めているとまるで通り抜けたようにしか見えないわけだ。
商人の背を見送る俺の様子から、衛兵は得心がいったというふうに頷いて言う。
「通行には税がかかる。知らないのか?」
な、なるほど。
「さ、最近ここに来たばかりなので……」
「まあそうだろうな、あまり見かけない顔だ」
「顔を覚えてるんですか?」
「常連はな。あとは態度だな。お前さんはここいらに不慣れな感じがするしすぐ分かる」
確かに、普段通り慣れたところを通るのに気負ったりする必要はまったくない。
自分の家の玄関のドアを開くのに、いちいち緊張する人はいないということだ。
「ま、とにかく定期納税証明手形を見せるか、都度現金で税を納めるかしてもらわないとここは通せないってことだ。お前さん、金は?」
俺は首を振る。
「ふうん。ま、城壁の外にも市場はある」
門に来る途中の道沿いにも、いくつか建物が並んでいて、主に馬小屋や宿が多かったけど、確かに衛兵の言うとおり商店が軒を連ねる『市場』もあった。
「通行税はデナール銀貨一枚だ。中に入りたかったら、適当に金を作ってくることだな」
市場に行って、何か売って換金すれば、そこから税を収められる、ってことだ。
デナール銀貨というのがどういう銀貨なのか分からないが、徴税に使われるくらいだからこのあたりで普及している貨幣なのだろう。当然市場でも使われている、と。
俺は頭を下げ、城門に背を向ける。
道沿いに、点々と建物が立ち並んでいるのが見える。
ぱっと見乱雑で、実際その印象は間違ってないんだろう、素人目でもあんまりよくは考えられていなくて、ただなんとなく建てたという感じがする配置だ。
スプロール現象といって、都市が発展してその範囲が拡大すると、郊外に向かって無計画、無秩序に市街地の開発が進んでいく。
こういう城壁を持つ都市では顕著で、城壁の内側のいわゆる『市域』では計画的に道が引かれるし建物が建てられるんだけど、城壁外では、都市計画が追いつかないので、そうはならない。
都市としてのあり方にとらわれないで、「小麦畑耕すのに便利だから」とか「この辺は羊を放牧してるから」とか「人が増えてきたから」とか、各々の都合で、各々にとって都合のいい、適当な立地に建物を建てて住む。
結果的にまだらの虫食い様の景観が出来上がる。
それで、ぶざまに広がると呼ぶわけだ。
ニルシュヴァールについて言うなら、まだそこまで郊外の開発が進んでいないので、今から区画整理をすれば多少は改善できるかもしれない。実際そうして城壁を幾重にも重ねながら発展した都市の例はいくつもある。
スプロール化が進めば、ところどころに空き地があるけど中途半端な広さであたらしく建物を建てたりできなかったり、道を引こうとしたら間に家が建っていて大きく迂回しないといけなかったり、みたいに、次第に不合理な作りの街になっていく。
ただ、そこに住んでるひとにとっては、それが都合がいいからそこに住んだということなので、必ずしも不便とは言いがたい。
この都市をニルシュヴァールと呼ぶことや、傍を流れるニルース川のこと、都市の人口といった情報は、このスプロール地帯で仕入れた。
ここもまたニルシュヴァールという都市の一部なのだ。
少なくとも、都市の中に入れない人間にとっては、こういうところに市場があるのは大変ありがたい。
ただ、換金すると言っても、だ。
たとえば異世界転移あるいは転生ものだったら、魔法を使うとか卓越した剣や槍や弓の腕でもって、獣を狩って、その肉だとか毛皮を売って金を得る、とかできるんだろう。
俺は神らしいけど、できるのは門を開いて空中回廊とこの世界を行き来することと、空中回廊から何者かに神託を下すことと、それから遠見だけだ。
それ以外はただの人間なのである。
ただの人間にできることは、決して多くはない。
ただの人間にできないことは、そうでないものに任せればよい。
俺は空中回廊に戻ると、アンネを呼んで物質化の引数を設定してもらう。
また門をくぐる。
とんぼ返りだ。
門から下界に降りるとき、一度行った場所なら、どこに降りるかは自分で決められる。最初の一回だけはどこに降りるかは降りてみるまでは分からないけれど、二回目以降は実質的な瞬間移動能力ってことになる。
移動先として選ぶためには実際に一度足を運ばなければいけないので、最初のうちは足で稼ぐことになる。
都市の入り口には一度来ているので、いつでも降り立つことができる。
何もないところから突然ひとが現れると大騒ぎなので、人目につかないところを選んでこっそり降りる必要はあるけれども。
ともかく、もう一度都市の入り口までやってきた。
「あんたはさっきの……金は用意できたのか?」
「これでいいかな」
デナール銀貨を一枚渡す。
「確かに、銀貨一枚だな。通っていいぞ」
晴れて、俺は城塞都市ニルシュヴァールに足を踏み入れることができたわけだ。
さて、どうやって銀貨を手に入れたのか。
市場では銅貨や青銅貨といった雑多な貨幣が流通している。
各地から行商人がやってくると、貨幣の種類が増える。
商売では銀貨より価値の低い貨幣が使われるので、銀貨以外の雑多な貨幣も飛び交う。
しかし取引に使われる貨幣がばらばらだと不便だし、市の徴税にはデナール銀貨というやつが使われているので、デナール銀貨に交換したい。
逆に、デナール銀貨のままでは商売のときには不便で、流通している銅貨や青銅貨を使いたいから、デナール銀貨をくずす。
ということで、市場では両替という商売が成立する。
つまり、雑多な貨幣でもたくさん集めてきてデナール銀貨に両替すれば、デナール銀貨を手に入れられるわけだ。
雑多な貨幣というのは、粗悪な貨幣も含まれる。価値は低いけれども、数を集めれば、それよりも少しはマシな貨幣に交換できる。交換を繰り返せば、よりよい貨幣を手に入れられる。
もちろんそのたびに手数料がかかるので、うまみは全然ない。
うまみは全然ないが、しかし元手があれば確実に銀貨を得られる方法である。
元手はあった、というか、捻出した。
市場で拾ったもっとも粗悪な貨幣のアンブロン青銅貨一枚、それが元手だ。
これをどうしたのか。
『トールさまは神さまなんですから、何もこのような涙ぐましい方法でお金を得なくても、とわたしは思うのですが』
あわれみのこもった声でアンネが話しかけてくる。
気持ちはわかるし、自分でもけちくさい方法だと思う。
『城壁外にいる誰かに神託を下して、銀貨を献上させたり、もっと神さまらしいやり方をなさったほうがよかったのではないでしょうか。その、神さまとして』
なるほど、そういう方法もあるのか。
『ふつうはそうすると思います』
でもまあ、そう言わないでよ。
おかげで城壁内に入れたわけだし。
『ですが、拾った硬貨を物質化で増やして、他の硬貨へと両替する。その硬貨を物質化で増やしてまた両替……いくらなんでもこれはあんまりだと思います』
戻るたびに転移酔いが酷かったしね。
苦労した甲斐があってよかった。
『これって、偽造と同じだと思うんですけど……』
いやいや、まったく同じ質のものを作って持っていったんだから、むしろ品質の悪い貨幣を駆逐できていいんじゃないかな。
『悪貨は良貨を駆逐する、と言いますよ』
そうなんだけどね。
実際、流通してる貨幣の中に結構な量の私鋳貨幣が紛れている。
見るからに雑な複製だったり加工だったりするんだけどもそれでも使われるのは、官鋳貨幣の流通量が足りていないからだ。
官鋳貨幣の流通量が足りていない原因は、材料不足か、生産が追いつかないか、生産を絞っているか、そのあたりだと思うけれど、どっちにしても、流通量を増やせばいいんだよね、ってことで、俺が持ち込んだ官鋳貨幣そっくりな大量の質のいい貨幣はきっとひとびとの役に立ってくれると思う。
といっても、増殖させた貨幣の量なんてたかがしれていて、焼け石に水ではあるんだけども。
『まあ、ある意味ではわたしの見込んだとおりの神さまですから、わたしからは特に言うことはありません』
アンネの中で俺ってどういうイメージなのか、たいへん不安になる言葉なんだけども。
『ほめていますよ、いちおう。わたしにはとてもそうぞうできないおもしろいほうほうです』
何その棒読みちゃんみたいな口調。
もっと面白そうに言ってほしい。
『キャハハハ、超ウケるー!!』
……。
ていうか、いまだにアンネがどういう性格なのか掴みきれてないんだよな。
口調は丁寧だけど、言うことは遠慮しないし、意外と根に持つし、食いしん坊だし、変なところで妙にはしゃいだりするし、地球の文化にやたら詳しいし、それでいて、こういうときに真面目だったりするし。
よくわからない。
『不思議ちゃんということにしておきましょう!』
それ自分で言っちゃうのか。
いいんだけども。
『それより、城壁内に入られて、これからどうするつもりですか?』
もちろん、決まっている。
まずは、情報収集だ。
今一番ほしいのは、この世界の情報だ。
この都市についてだけなら、城壁外のスプロール地帯でも、それなりに情報収集できる。
あるいは、行商人や旅人からなら、この周辺地域についても知ることができるだろう。
でも、それでは足りなくて、もっと大きな……国家であるとか、歴史であるとか、宗教であるとか、文化であるとか、そういうものを知る必要があるから、都市の外側で歩き回っているだけではいけないのだ。
だって、立地を見るために降りたらすでに文明があってしかも中世レベルまで発達しているわけだよ。
ひょっとすると、別の地域ではすでに近世の萌芽が見られるかもしれない。
状況の把握、それこそが今何をおいても真っ先にすべきことである。
さいわいお金には困っていない。
複製したデナール銀貨と、同じく複製したオーレ丹銅貨をたんまりと懐に抱えている。たんまりって言ってもあんまりたくさん持ち歩くと重いからそんなでもないんだけど、その気になったらいくらでも複製できる。
『情報も、ご自分の足で集めるんですね』
そっか、そういうのも神託で誰かにやらせればいいのか。
『情報を集めさせている間は空中回廊で過ごすようにすれば、効率的に情報収集できると思います』
なるほど。
それは確かに便利かもしれない。
ただ、せっかく異世界気分を味わえるんだし、最初くらいはちゃんと自分の足で歩き回って、自分の目で見て、自分の耳で聞いて、ってやりたいんだよね。
『はい。もちろんトールさまのやりたいようにして結構ですので』
アンネは退屈になったら適当に時間進めていいからね。
『いいえ、とんでもない。ちゃんと見届けさせてください』
律儀だなあ。
『これは「体験版」なのでしょう? でしたら、サポートなしというわけにはいきません』
そういうのが律儀だなあって思うんだけども。
『それとも、わたしに見られているとまずいことでもなさるおつもりですか?』
まずいことって?
『この街には娼館もあるようですからね。そういうことでしたら、わたしはお邪魔にならないように……』
は?
え、ちょっと待って、俺そんなことするつもりなんて全然、っていうかこの街娼館あるなんて知らなかったし今知ったし、
『そんなにあわてなくていいですよ。でも、トールさまもやはり男性なのですね。えっちです』
しないって言ってるだろ!
夜遊びしないとは言ってない。
俺は今、ニルシュヴァールの繁華街の一角にある酒場に来ている。
酒が入って気の大きくなった客たちがわいわいがやがやとうるさい。
もちろん酒を飲みに来たわけじゃない。
情報収集は人が集まるところでやる。と言ったら、定番はやはり酒場だよね。
俺はまだ成人していない……んだが、酒を飲んだことがないというのも嘘だし、ここは異世界である。元の世界の法律を物差しにするのはナンセンスだろう。
というわけでカウンター席につくと、俺は主人に酒を頼む。
合法、合法。
「何を飲むんだ?」
「ここらへんの特産の酒がいい」
酒場の主人はほうと感心したように息をもらし、目を細める。
「ちょっときつい酒だが大丈夫か?」
もしかして蒸留酒か!
俺は内心の驚きを漏らさないよう、充分注意し、主人に告げる。
「火がつくほどの強さなら、水で薄めてもらえるかな」
「ははっ、賢明な判断だ。薄めにして持ってくるから待ってな」
「あと、酒にあうような軽めの料理があったら、それもほしい。もちろんこっちも、できればこのあたりでしか食べられないやつがいい」
「あいよ」
主人は機嫌よさそうに厨房に引っこんでいく。
頼んだとおりに酒を薄めてくれるということは、『火がつくほどの強さ』の酒だということになる。
それは、蒸留酒だ。
『トールさまは、お酒がお好きなんですか?』
そういうわけじゃないんだ。
べつに酒が好きで蒸留酒がうれしいから舞い上がっているわけじゃない。
酒場で蒸留酒が出てくるのは、蒸留酒が普及しているからで、そして蒸留酒をつくるには蒸留という工程が必要になる。当たり前だ。
『つまり、蒸留という技術が存在していることに舞い上がっているわけですね』
そう、この世界には蒸留酒があり、蒸留技術がある。その可能性に心を踊らせているわけ。
『可能性?』
可能性というのは、度数が高いからイコール蒸留酒とは限らないってことだ。
ここは異世界なので、ひょっとすると自然に度数の高い酒ができるかもしれない。高いアルコール濃度でも活動できる酵母がいるなら、そういう可能性もある。
ただ、それはこの際考慮しないことにする。
考えだすときりがないからね。
『でも、蒸留酒ってそんなに珍しいものなんですか?』
元の世界の歴史上で、蒸留酒が最初に作られたのがいつか、はっきり分かっていないけれど、紀元前にはすでに存在していたと言われている。
ヨーロッパで蒸留酒が普及したのは十三世紀ごろから。
つまり中世の後期のことだ。
今のこの世界の文化水準から考えれば、せいぜい少し早いかぐらいのことで、不自然じゃない。
ましてここは異世界なのだから、元の世界の歴史と発展の過程が異なっているのも不自然じゃない。
珍しいかといわれれば、それほど珍しくはない。
珍しくないし、不自然じゃないけれども。
この幸運さは不自然なくらいだ。
主人が酒と料理を持ってくる。
ハムとチーズが盛りつけられた皿と、スープの器が並べられた。
スープは真っ赤な色をしていて、表面にクリームが添えられている。たぶん赤い野菜を煮込んだものだろう。クリームからはヨーグルトのような爽やかな香りがして、食欲をそそる。
「羊のハムと、羊のチーズだ。ここらの羊は、ちょっとした自慢でな」
「なるほど」
「そっちの器は、ブリャークのシチー」
これがこの地方の特色的な料理らしい。
酒は幸福資源だ。豊かな調理方法もまた然り。
幸福資源が豊かな文明は、文化が発達する。
飯を食うのに精一杯なうちは、文化が育つ余地なんてない。
食事を豊かにしたいという欲求が生まれ、嗜好品としての酒を作る技術が発達している。
そういう場所では、あたらしい文化が芽生える。
初期配置からそう遠くない場所でそんな文明に巡り合ったのだから、幸運と言わざるをえない。
神立地だ。
とんでもない神立地だ。
だけれども、俺は出てきた酒を飲んで、見込みがまるで甘かったことを思い知った。
神立地どころのさわぎではなかったのだ。
俺は、声が震えないように充分に注意しながら、主人に問う。
「この酒、誰が作ったのか分かる?」
主人はニヤリと口の端をゆがめ、周囲に軽く視線を巡らせると、カウンターに身を乗り出す。
「いいか、誰にも言うなよ。特に、法衣を着た坊主どもにはな」
そして、こちらに顔を近づけて、声を潜めて言った。
「そいつを作ったのは、魔女だ」