よく異世界転移ものを読んだりしていると、登場人物がすんなり異世界に来たことを認識できてたりする。
ゲームっぽい世界に飛ばされた、とかなら、「ああこれゲームで見たことあるわ」っていうのが手がかりになる。
ところが、まるで未知の世界だったら、それって異世界なのかどうか判断できないような気がするんだよね。
ヨーロッパっぽい建築だけど、電気が通ってない。
異世界だ!
とはならない。
タイムトリップして過去のヨーロッパに来た可能性だってあるわけだからね。
けれども、今いるここは間違いなく異世界だ。
だって、月が二つあるんだもの。
頭上に煌々と輝くお月様二つ。
大きいのと小さいのとだ。
大きいほうは、地球の月よりもちょっと大きい気がするし、小さいほうは地球の月よりわずかに小さい気がする。
見比べたわけじゃないので、分からないけれど。
大きいほうは少し赤みがかっていて、小さいほうは青っぽい。
真っ赤とか真っ青というほどの違いはない。
どちらかというと暖色、どちらかというと寒色というくらいだ。
ただ、隣り合っていると結構ハッキリと差が出る。
ともかく、とてもファンタジーっぽい光景である。
おそらくは異世界なんだろう。
月が二つあるどこかの惑星という可能性もゼロではないけれど、それって充分異世界だと思う。
異世界らしい光景を目の当たりにしても、俺は特に何の感慨もなく、これからどうしたもんかなと考えていた。
別に、俺は異世界で冒険がしたいわけではない。
ちょっと立地を見に来ただけだ。
周囲を見回す。
森だ。
森の中で少し開けた場所にいる。
ちょっと月明かりだけを頼りに探索するのははばかられるので、周りの様子を見る程度にする。
風のない静かな夜である。
夜だが、さすがに月が二つあるからか、月明かりだけでも結構明るい。
焚き火の跡を発見。獣か鳥か何かの骨が転がっている。
誰かが野営でもしたのだろう。
火は文明の象徴だ。
プロメテウスが人間に火をもたらし、人々の暮らしは豊かになった。
とはいうが、実際には文明が生じるよりもずっと前、今の人類よりも古い種の頃から、人類は火を使ってきたといわれている。
この野営の跡を見ただけで、どの程度の文明を築いているか判断するのは難しい。
そういう方面の学者なら、それまでに蓄積した知識と、フィールドワークで培った経験とで、判別できたりするのかもしれない。
一方、俺は今年大学に入ったばかりの、何の変哲もない、ただの学生である。
だから、この想像は外れているかもしれない。
外れているかもしれないし、無学を承知で言うならば、この野営跡は、それなりの文明水準の証だと考えられる。
これが野営の跡であり、生活拠点の跡ではないからだ。
生活拠点にするなら、雨風を凌ぐ工夫をするし、水源の近くを選ぶ。静かな夜でも水の音が聞こえないのを考えると、近くに川などはない。
ここが野営なら、どこか別のところに生活拠点があるのだろう。少なくとも、ここから往復で半日よりも遠いところに。
空間の広さからいって、ここで野営をしたのは数人……三、四人程度だ。
三、四人程度で、森の中を探索している。
たとえば、狩猟や採集を目的に。
ひょっとすると旅かもしれない。
生活拠点を離れて、水や保存食を持ち歩いて、野営を行い、生活拠点へ戻る、という文化を最低限持っていることが想像できる。
生活拠点が定住地ならば、主要な産業は最低でも農業だ。
それなりの文明といって、差し支えないだろう。
あくまで想像ではあるけれども。
さて。
近くにそれなりの文明人が住んでいるなら、接触してみたくはある。
ここで歩き回ったら間違いなく遭難する。
遭難したら帰ればいい気はするんだけど。
そういえば、どうやって帰るんだっけ。
……。
ヤバイ。
これはとてもヤバイ気がする。
気がするというか確実にヤバイ。
と思っていたときだった。
『……聞こえますか……聞こえますか……』
な、なんだ。
頭の中に直接声が響く。
『……わたしです……今トールさまの心に直接語り掛けています……』
わたしじゃ誰か分からないが、声で分かるような。
「アンネ?」
『はい、トールさま……その様子ですと、無事に下界に降りられたようですね』
「ここがアンネの期待通りの世界かどうかは分からないけどね」
『どのような感じでしょうか』
「月が二つあった」
『それなら大丈夫です』
話が早くて助かる。
「これからどうしたらいい?」
『まずは現地人と接触しましょう。それから自分が神であることを告げ、彼らの手助けをしてください』
「ちょっと待って」
『なんでしょう』
「いまここで動き回ると間違いなく迷子になる」
『そうですね。ですが、迷ったらこちらに戻ってくればよろしいのではないでしょうか』
「戻り方が分からない」
『門を開けば、戻ってこられますよ?』
何さも当然のように言ってくれてるんでしょう……?
「あの、簡単に言ってくれるけど、俺ここに来るまではごく普通の大学生だったんだけれども」
やり方が分からないから困っているのであって。
知ってたらやってるんだよね。
まあ今にして思うと帰り方が分からないままここに降りてきたのは相当迂闊ではあったのだけども。
『トールさまは今は神さまなのですから、ある程度まででしたら神の奇跡をお使いになれますよ?』
「神の奇跡?」
『はい。門を開くのもそうですし、他にも遠見ですとか神託などもあります』
「そういうことは早く説明してくれるとありがたい」
『必要なときにその都度お教えすればよいかと思っていましたので』
それに、とアンネは付け加える。
『何が起きても死んだらこちらに戻ってこられますので、最悪大丈夫ではないかと思っていました』
「いやさすがに死にたくないよ!?」
こいつ、他人事だと思って!
視覚、聴覚などの感覚系はそのままと聞いていたとおり、実際に降りてみるとまさしく生身の身体そのものの感覚だった。
多分、痛覚も一緒なんだろう。
さすがにそんな状態で死にたくない。
絶対痛い。
「でも、そうか。とりあえず、門を開ければ帰れるんだね」
『はい』
なるほどなるほど、じゃあ、試しに門を開いて……。
「どうやって開くの?」
『こう、頭に思い浮かべて、しゅっとしてぱっという具合に』
「分かんねえよ!」
巨人の終身名誉監督かよ!
『分からないんですか?』
え、何その「こんなことも分からないんですか?」的なトーン。
俺がおかしいの?
『ともかく、試しにやってみてください。トールさまならできます!』
できるって言われても……。
やりたいことはこの世界から帰ることだ。
まずはこの世界の出口を作る。ここから出ないと話が始まらない。
この世界から出たら、帰る場所を目指すことになる。
帰る場所は……空中回廊って呼んでたっけ、あそこに帰ることを意識したらいいのかな。
この世界の出口と、空中回廊までの通り道、それから空中回廊の入口をイメージする。空中回廊の入口は、向こう側の門だ。
それを思い浮かべて、そこと繋げばいいんじゃないかな。
これで本当にできるのか分からないけど。
そんな感じの、ゲートに、な~れ。
「できちゃった……」
目の前、何もない空中に、丸く穴が開いている。穴の内側には、空間の歪みらしきものが見える。
ちょうど、降りてくるときに使った門と同じだ。
同じように見えるってことは、同じなんだろう。
……たぶん。
『さすがはトールさまです!』
アンネの声色は明るい。
成功しているんだろう。
……たぶん。
でも、いいのかな。こんな適当な感じで……。
さっきからたぶん、たぶんと自信がないのも、あまりに適当な感じだからだ。
「これちゃんと繋がってるのかな」
『こちらの門が励起状態になっていますから、接続と経路の確立には成功していますね』
「通ったらそっちに行ける、と」
『はい。大丈夫です。それに、もし転移用の空間の展開に失敗していても、通り抜けた身体がばらばらになったりするだけで、意識は自動的にこちらに戻ってきますから、ご安心ください』
「全然安心できないよね?」
『大丈夫です。トールさまが作ったゲートですから、問題はないでしょう』
いちいち推定系なんだよね。
本当に大丈夫かなあ。
まあ、断言されても不安は拭えないんだけども。
結論から言うとだめでした。
身体はばらばらにならなかったけど、めちゃくちゃ酔った。
「きもちわるい……」
「最初のうちは経路の整地がうまくできませんから、転移酔いしやすいのは仕方がないです」
「それ、わかってるなら、おしえてほしかった……」
胸焼けがするとか吐き気がするとか頭が重いとか、おかしいでしょ……。
今の俺は意識体のはずなのに。
生身の肉体の感覚に引きずられるのって、理不尽だと思う。
「お教えしたところで、軽減する方法はありませんけど」
「それは、そうなんだけど……」
納得がいかないよね。
「それに、一度失敗すれば次からは空間面が安定した経路を作り方が分かるようになると思いますので」
どうでもいいけど空間面ってすごい言葉だな。
言いたいことは分かるし、ほかに表現もできないと思うけど。
今、俺は空中回廊内の一室で、身体を休めている。
いや、意識体だから精神を休めているというべきか。
この空中回廊という施設は、実際には回廊構造にはなっていない。
領土や地形などで細長く伸びた部分のことを回廊地帯と呼んだりするが、つまりここも、そういう類の比喩なんだろうと想像する。
通路の両側に扉が並んでいて、それぞれ小部屋に通じている。
その小部屋の一つで、休んでいるところだ。
ベッドに横たわっていると、気持ち悪さが和らいでいく気がする。
この身体は意識体なので、横になったら楽になる、というのも仕組みがよく分からないところだけども。
少し休憩したら楽になったので、気になっていたことを聞いてみる。
「さっき、ゲート以外に遠見がどうとか言ってたよね」
「はい」
「遠くが見えるようになるの?」
そんな感じはしなかったけどなあ。
夜だから分からなかったのかな。
と思ったら、どうやら違うらしい。
「ええと。遠見の力は、遠くを見通せるようになるわけではなくて、遠くに目を送ることができるようになる力です」
「目を送る?」
「はい。今いる位置から動かずに、視点だけを動かすことができる、と言えば分かりますか?」
「カメラを飛ばして、カメラ越しに映像を見るみたいな感じか」
「ちょうどそういう感じだと思います」
どうやって視点を動かすのかさっぱり分からないけど。
「遠見は、自分の身体を動かす代わりに、視点を動かすことができます。前に進もうと思えば前に進みますし、上を向こうと思えば上を見上げることができます。後は、視野のズームを切り替えたり、ですね」
「なるほど」
RTS ゲームで、ユニットを指定して TPS モードに切り替えられるやつがあったけど、あれの逆だと思ったらよさそう。
つまり、TPS モードから RTS モードに戻すように、一人称視点から神の視点に切り替えて、視点を動かしたり回転させたりズームしたり、という感じをイメージすればいいんじゃないか、ということだ。
「遠見の最中は、ご自身の身体を一切動かせなくなりますから、身の危険がある場所では使わないようにしてくださいね。もちろん、命を落としても意識はこちらに戻ってくるので、不都合はあまりないのですが」
「いや、いくら意識が無事でも死にたくないよ……」
気をつけよう。
「あと、遠見ともうひとつあったよね」
「神託ですね」
「それはどういうもの?」
「さっきわたしがやったじゃないですか」
「え?」
「トールさまが下界に降りているときに、声をかけましたよね」
あ、あー。あれ。
神託だったんだ。
「そのときに説明し……いや、やっぱりいいや」
必要なときにその都度教えればいいとかって言われるだけな気がするし。
「あらためて説明しますと、この空中回廊から下界にいる人に言葉を託したり、その相手の言葉を聞いたりできる力が、神託です」
「神の力っぽい」
「神さまですから」
さすが神。
「まあ、実際には世界間通信の応用ですから、わたしでもできますし、一番神性を必要としない力なんですけどね」
「そういう身も蓋もないことを言うんじゃありません」
いろいろと台無しだった。
あれ、でも、ちょっと待てよ?
「その力を使ったらアンネにも下界の住人を導いたりできるのでは」
「それはですね。誰かが一度降りないとだめなんです。わたしは降りられませんから、トールさまにお願いしたというわけです」
「でも、もう俺が一度降りてるから、俺いなくてもいいよね?」
「そういうわけにはいきません。トールさまに神さまをやっていただかないと」
「なんでまた」
「そのほうがおもし……いえ、わたしには神の適正がありませんから」
「いま面白いからって言おうとしたよね?」
「それに、何かあったときに、下界に降りられないのはやはり不便です」
「ねえ面白いからって言おうとしたよね?」
「わたしの目を見てください。そんな理由でお願いするように見えますか?」
アンネの目を見つめる。
青く澄んだ瞳をしている。
内面の感情の動きを制御するのが苦手な人間は、やましいことがあると目が泳ぎがちだとは言うが、瞳が済んでいるか濁っているかということと、よからぬことを考えているかどうかというのは、基本的にはまるで関係がない。
分かるのは、内心を隠すのが上手いだけの可能性がある、ということだけだ。
つまり、どれだけ綺麗な瞳をしていようと、それで信頼に足るとは言えない、むしろ信頼できない可能性さえあるってことになる。
そうやってじっくりとアンネの目を見ていたら、その瞳がにわかに揺らいだ。
「あ、あのっ」
そして、頬を染めて、目を逸らしながら言う。
「あまりじっと見られると、恥ずかしいです……」
……。
こっちが恥ずかしくなって目を逸らした。
はぐらかされてしまったというか、ひょっとしていいようにからかわれているだけなのでは?
「ぐぬぬ」
演技の可能性も充分にある。なのに不覚にもくらっと来てしまった。
まことに遺憾である。
まあいい。そんなことよりも大事なことがある。
「で、神託って、どうやってやるの」
「基本的には、ゲートと同じです。繋ぐ先をイメージして、経路を作ります」
「ふうん」
……ん?
「ゲートの作り方ちゃんと説明できるじゃねえか!」
「ふふっ」
何も面白くないんだよ!
いや、やめよう。不毛だ。心を穏やかに保つのだ。
「と、とりあえず、ゲートを作るみたいにして経路をつなげばいいっていうのは分かった。で、それからどうすれば?」
「経路を通して言葉を伝えれば、相手に伝わります」
「それだけ?」
「はい」
「なんか思ったより簡単……?」
「神託自体はむずかしくありません。神託を下す相手との間に経路を作れさえすればいいわけですから」
ということは、その経路を作ることが重要なのか。
「問題になるのはむしろ、誰に神託を下すかということですね。神託を下す相手がいなければ、何もできません」
「確かに」
線を結ぶには、始点と終点の二点が必要になる。
終点が決まらなければ、経路は作れない。
「というわけですので、とりあえず候補者を選定しましょう」
「どうするの」
「下界の住人から、神託を下すのにふさわしい人材を選ぶのです」
そりゃそうだ。
アンネに神託を下してもしょうがないし。
が、元の世界を離れてより、アンネ以外に誰にも会っていない。
「その下界の住人は、どこにいるの?」
「下界にいますよ」
そんなことは知っている。そうではなく。
ジト目を向けるよりも早く、アンネが口を開く。
「まだトールさまは下界で誰とも接触されていませんから、どこにいるかは分かりませんね」
そう、それだ。
それなんだけれども。
「まるで俺がちゃんと仕事しないからみたいな言い方」
「?」
小首を傾げるアンネのその瞳は言っている。
違うのですか?
——と。
ため息をひとつ。
俺に神を任せた当人が、まるで俺を信用していない。なんで俺を連れてきたんだよ。
そんな心中にこたえるように。
「まだトールさまは神になり立てですから。期待なんてしませんよ」
アンネは言う。
まことに、遺憾である。
納得できてしまうのが、大変、遺憾である。
名誉を挽回しなければなるまい。
「あてはあるよ」
下界に降りたのはわずかな時間ではあったけれども。
ちゃんと、立地は確認してきた。
といっても、ほとんど運ではあるのだけれど。
「あて、と言いますと?」
「まずは、誰か人に接触すればいいんでしょ?」
「ええ、まあ」
「じゃあ、ちょっと会ってくるよ」
「会ってくるって、そんな簡単に——」
そこまで言いかけて、アンネは思い当たったようだ。
「会えるのですね?」
俺は頷く。
そう。人がどこにいるかが分かれば、会うのは難しくない。
幸運にも、俺は野営跡を見つけている。あの森からそう遠くない場所に人が住んでいるのだ。しかも——これは想像になるけれど——ある程度の規模の集落を形成して。
人のいる痕跡を見つけたのは、全くの偶然だけれども。
成功者はいつだって、その機会を見逃さずに自分のものにしてきたのだ。
それこそが、実力。
運も実力のうち、である。
さあ、神の仕事の続きをしようじゃないか。
そう意気込んで、部屋の外へ出ようとして。
背中に声をかけられる。
「でも、向こうはまだ夜ですよ?」
……そうだったね!
夜だし探索できないんだったね!
アンネが呆れのこもった視線を投げかけてくるような気がするが、気のせいだろう。
気のせいに違いない。
そして俺は決意を新たにする。
神、明日から本気出す!