1.
羊街道の西風
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風巫女のエンブレイス

 風通りの悪いところというのは、空気だけではなく、感情もみがちなものである。気持ちの沈んだものが、そうしたところに集まるのは、自然なことと言えるだろう。
 うす暗い路地に人影が四つ。一つは怯えるような小さな輪郭。残りは、それを取り囲むようにそびえる、大きな輪郭。
 路地から聞こえるのは、た笑い声。
 よくよく見れば、小さい方は少女のものと分かる。を手に、粗末な衣類に身を包んでいる。だが、みすぼらしい身なりが、少女の素朴さ、さを引き立てている。おおよそこのようなうす汚い路地には不釣り合いな、な少女。花売りであろう。籠は花で溢れている。
 取り囲んでいるのは、こちらもまたうす汚れた衣服を身にまとった男が、三人。ごろつきか。
 ひとりは、中肉中背で筋肉質、禿げ上がった頭が、タコのようにも見える。
 もうひとりは、小柄で小太り、ダルマのような男。
 あとのひとりは、で長身、ススキのような男。
 中肉中背のタコ男が、おそらくは三人の頭代わりだろう。
 タコ男は少女の肩に手を掛け、低い声で言う。
「嬢ちゃん、金に困ってんだろ?」
「こんな花なんか売ってるよりも、もっと儲かる方法教えてやろうかってよお」
 ススキが、甲高い声で早口に続けて、
「は、花よりの方がす、好きって奴も、一杯いるしなア」
 と、ダルマがどもりつつ言うと、ススキがククと、肩を揺らして笑う。
「そういうお前もちいせえ方がいいんだろ、ちょうどこいつみてえなよお」
「なんだおめえらそんな趣味があったのか」
「お、おうよ、う、う売っちまうなんてもったいないくらいだ。……ど、どれ、味見してみるかァ?」
「ふん、俺にはそんな趣味はないが、確かにこいつは上物だ」
 路地から漂う花の香に、彼はふと意識を引き寄せられた。それから、鼻を摘まみたくなるような、酒臭く、獣臭い、薄汚いごろつきたちの体臭も。
 “彼” はそのとき、全く偶然この路地の前を通りかかったところで、このような事態に関わることなど考えてもいなかった。
 しかし、路地の奥より聴こえる下品な笑い声に、ふと顔を向け、フードの隙間から、ちら、と一瞬、その様子を見てしまった。
 不快だ、と “彼” は思った。
 ただ通り過ぎるだけのつもりだった。気付かなかったならば。
 風が自らの通り道の埃を気にすることがあろうか。
 そう思いもしたが、風も、人の心も、往々にして推しれぬものだ。
 ならば、と言い聞かせ、“彼” はフードを目深くかぶり直し、つま先の進む向きを変える。
 タコ男が少女へと手を伸ばす。少女は、手をけようと腕を振り上げたが、
「は、離してください!」
「うるせえ!」
 がなり散らしながら、タコ男が腕を吊るすようにみ上げた。自然、少女の身体が持ち上がる。どさり、と花籠が路地に落ちる。
「ひっ」
 ダルマが少女の顔を覗き込んで、じろじろと舐めまわすように見る。少女は顔をえと嫌悪に引きつらせ、身体を反らそうとするが、宙に吊るされて思うように身動きが取れない。
「み、見ればみみ、み、見るほど、うう、う、売るのが惜しい。ひひ、ここ、こいつは、たまらねえ匂いだア……」
 まじまじと見つめながらダルマがとした顔で言う。
「だが、こいつは相当高値で引き取ってもらえそうだ。ちんけな宿場町とはいえ、捨てたもんじゃあねえな」
「なア、ちょ、ちょっとくらい、あ、味見したって、ばば、罰ァ当たんねえだろ……?」
 えきれず、ダルマがタコ男にする。
「チッ、しゃーねえな、傷モノにしなけりゃ構わんだろ。おい、そっち抑えろ。暴れたらコトだ……おいおい、抑えるのは俺じゃあねえ」
 不意に腕を掴まれて、タコ男はうんざりした顔でススキに言うが、しかし、ススキは首を横に振る。
「抑えてねえよ」
 ススキは両の腕を上げてみせる。その手には何もない。
「じゃあこの手は誰んだってんだ」
 タコ男の腕を、横から掴む手。ダルマは、少女に夢中で聞いちゃいないようだ。では誰か。手の根元へと視線を辿らす。
 そこにあったのは、砂色の外套をはおり、目深にフードをかぶった男の姿。うす汚れた路地にはしい、いのようないでたち。
「おれのだ」
 しかしその声音には、死地をり抜けてきたものが持つある種の威厳があった。タコ男は、いつだったか傭兵や殺し屋と面を向き合わせたときのことを思い出し、背筋を振るわせた。が、それを気取られない程度には、タコ男は愚かではなかった。
「な……んだてめえは!」
 腹の底から声をらせて問うタコ男。
 しかし、フードの男は動じず、ただかすれた声で言う。
「通りすがりの “” だ」
 手を放すと、すかさず腰の剣帯から抜き放つ。
 タコ男は両の腕を顔の前で交差させ、受け止める。よく鍛えられた太い腕が、疾風の一閃に浅く切り裂かれ、血をらす。
「こ、の野郎!」
 一寸の間の後、タコ男はえてフードの男に殴りかかる。しかし、フードの男は身を低くするだけで、タコ男の大振りな一撃をひらりとし、片足を軸に、
もう一方を大きく振るって、タコ男の脚を刈る。ぐらり。身体の均衡を崩し、倒れるタコ男。路地の土肌に身体を打ちけるも、受け身を取って素早く身を起こすと、しかしそこで一旦間合いを取った。
 フードの男の手には、色に鈍く輝く真っ直ぐな刀剣。花売りの少女を背に、不動の姿勢でただ立つ。
「てめえ、何者だ」
 呆然と見ているだけだったススキとダルマも、フードの男を両側を塞ぐよう、構えを取った。
 フードの男は、ちらりとごろつきたちをすると、静かに口を開く。
「名乗るほどじゃない。おれくらいの腕の “猟人” だったら、くさるほどいる」
 そして口元を小さく歪めて、言い放った。
「あんたらは、くさりきって脳みそにが沸き始めてるみたいだけどな」
「て……めえ、ふふ、ふざけやがって!」
 ダルマが我を忘れて、フードの男へ転がるように殴りかかる。
「なんだよ。大して面白くもない冗談に本気になるなよ」
 フードの男は半身逸らすだけで身をし、剣のをその首根っこに勢いよく打ち下ろす。
「剣を使うのもない」
「ふぐあっ」
 ダルマは、文字通り路地を転がって、そのままの勢いで石壁に激突。
「ぐう」
 そこでだらしなく伸びきったまま、起き上がらなくなった。
「抜くまでもなかったかな」
「てめえよくも!」
 ダルマをやられ、ススキが切れた。
「おい馬鹿、独りで突っ込むんじゃねえ!」
 タコ男の制止も空しく、ススキは長身から鋭い蹴りを抜き放つ。フードの男は、すっ、と後方へと跳び退いた。が。
「っと」
 外套の表が裂けた。
 ススキの足元をもう一度よく見れば、つま先の下側が黒光りしていることに気付く。
「仕込みブーツ……」
 ブーツの先端に、ナイフが仕込まれているのか。
「ひゃはっ、今更気付いても遅え遅え遅え!」
 高らかに笑い、ススキは更に蹴りを繰り出す。ひゅっ、ひゅっ、と、空を切る音がうす暗い路地に響く。
 しかし、フードの男には届かない。
「遅い? おれに言ってるのか?」
「馬鹿野郎、下がれ!」
 タコ男ががなり立てる。連携を取ろうにも、ススキが先行しすぎて手を出せないのだ。ただ歯噛みするよりない。かといって花売りに手を出そうにも、フードの男がずっと少女とタコ男との間の位置を維持しているせいで、近付くことさえ叶わない。あれだけ動いているにもかかわらず、だ。
 その技量の差や、して知るべし。
 ふと、フードの男が、ススキの視界から唐突に消えた。
「速さで」
「何イッ!?」
 焦り、辺りを見回すススキ。
「速さでおれに勝つ? そいつはおれの冗談より笑えない」
「後ろだと!?」
 背後からの、跳び膝蹴り。ススキの背を強打。ススキの身体が宙を舞う。路地の奥へと吹き飛び、木箱の山に突っ込む。けたたましい音と、砂煙と、崩れた木箱の中に埋もれ、そのまま動かなくなった。
「これで後は、あんたひとりだけど」
 フードの男は、タコ男に向き直る。
「う、うおおおおおおおおおおおおおおおお!」
 仲間二人を早々に打ちのめされ、自身もいいようにあしらわれ、ついにタコ男は恐慌し、狂ったように、腕を振り上げ、フードの男へと飛びかかってゆく。が、愚か極まりないことだった。
 フードの男の腕が一閃。みぞおちに剣の柄尻が叩き込まれる。鈍い音。息が漏れる音。
「ぐふっ……」
 地に崩れ落ちる音。剣をに収める音。
 フードの男は、少女に向き直る。
 少女は布を被せた籠を抱きかかえるように、じっと身を縮め、ひどくえた眼差しをフードの男に向けている。足元には、いくつも花が零れ落ちてしまっていた。籠に布を被せているのは、花を失って見映えが悪くなったことを気にして、だろうか。
「べつにおれはきみをどうこうしようなんて思っちゃないさ。風が埃を吹き払った。ただそれだけのこと」
「あっ……」
 おそらくは、無意識だったのだろう。少女は自身の態度に気付き、その非礼を恥じてうつむく。
「いや、気にしてないからいいんだけど。だいたい、こんなものかぶってたら信用なんてできっこないだろうし」
「どうして……フードを?」
「人には知られたくない事情の一つや二つ持っているのが “猟人” だからね」
「ご、ごめんなさい」
「だから、気にしてないって」
 フードをかぶり直す。もしかしたら、見えていたかもしれないな、と彼は思う。けれども、それも構わないか、とも思っていた。
 かすかに漂う、花の残り香。フードの男は、路地を後にする。


 路地を抜け、表通りへと至る。もう傾き始めてはいたが、それでも陽の当たる通りは明るく、活気にれている。道く人々の顔も、した路地のそれとは対照的だ。
 しかし、少女の顔は暗い。
「助けてくれて、ありがとうございました」
「どういたしまして——なんであんなところに?」
「それは、その」
「いや、言いたくないならいいんだ。人に言えない事情の一つや二つ持っているのが、可憐な花売りだからね」
「……くす」
 そのとき初めて、少女の顔に笑みが浮かんだ。陽の光を浴びて、髪がきらめく。ストロベリーブロンド。
「どうしたの?」
「本当に冗談が上手くないんだな、って」
「……」
 沈黙が降りた。
 てて取りろう少女。
「ご、ごめんなさい。助けてもらってこんなこと言うなんて……」
「い、いや……自覚はあるんだ、うん。分かってる。だいじょうぶ。だいじょうぶ。はは、ははは……」
「あの……もしよかったら、ですけど」
「ん?」
「何か、お礼をさせてください」
 な面持ちで言う花売り。しかし、フードの男は口元に苦い笑みを浮かべるのみ。
「礼なんていいよ、そんなの」
 それが拒絶の言葉であると、少女は気付いた。
「でも……」
 気付いていても、どこに気持ちを収めるべきか。
 そんな少女の気持ちをって、フードの男は努めて軽い口調で答えた。
「じゃ、今度見かけたら声かけて。一人旅って結構えるんだ」


 黒大陸よりレペンチアを経て、は聖王国ナタリアを北へと抜けると、の紋を掲げるアマルテア王国に至る。知の都と名高いアマルテア王都ゲーティスカンザは、しかしアマルテアとナタリアの宗教的対立のために南北の交易拠点としては発達せず、その代わりというだけではないであろうが、東西交易における西の要所として発展した。その東の要所が、エステルライヒ王都ヴィンデンベルクである。
 ゲーティスカンザ=ヴィンデンベルク間の交易路——羊街道と呼ばれるその道は、いくつかの主要な都市を結ぶようにして成立したが、街道が整備された後も、馬の乗り換えに都合のよい地点に駅ができ、人が集まり始めると、自然と宿場町が形成されるようになった。
 アマルテア南東部に位置するここパスカッシオも、そうした宿場町のひとつである。
 街道を利用する多くの人々にとっては、宿を借り、ただ通り過ぎるだけの町だ。
 けれども、そんなただ通り過ぎるだけの町にも人は住み、人が住めば良くも悪くも日々は揺れ動く。も揉めごとも必然だろう。
 ほくそ笑むものの影では、恨みを抱いて死んでいくものもある。
 よりよい生活のためと欲深くなる。ないものねだりをする。
 それが人の世ならば、彼らも存在もまた必然。
 —— “” と人は呼ぶ。
 獣を狩る。獣の棲む森で薬草を刈る。人の命を狩る。人の財産を狩る。盗賊を狩る。傭兵を狩る。金のためならば。
 ここは、そんな “猟人” たちが集う酒場。荒れくれもの、ならずものがたむろする、あまり品のいい場所ではないが、今日は比較的落ち着いているようだ。いくつかの卓が、他愛のない噂話で盛り上がっている程度か。
「知ってるか。俊足の “猟人” の噂」
「ゼファーリッドか、知ってるぜ。あのくだらない与太話だろ?」
「それが、見たってやつがいるんだよ、空色の髪の剣士がいたって。本当かどうかは知らねえけどよ」
「いやでもな、いくらなんでも大陸の端から端までを一昼夜で走り抜けたはねえだろうさ。早馬でも半月はかかるってのに。亜人つったって流石にない」
「そりゃ同感だ」
「そんなことより、あそこ見てみろ、あの髪の色は、ありゃ亜人か?」
 男の指す先には、翡翠色の髪の少女。革製の部位甲を身に付けているところを見ると、彼女も “猟人” か。
「お前ら、知らんのか。あれが噂の《》だろう?」
 別の卓についていた男が話に割り入ってくる。
「ああ、あれが噂の《風葬り》エアリーン・フォルトラント、か。話には聞いてはいたが……なるほど、確かに “猟人” なんかやらしとくには勿体ない」
「まあでも亜人だけどな。俺はごめんだ」
「いや “猟人” やってるくらいだ、よく跳ねそうじゃないか」
「そのまま息の根止められても知らんぜ。“風読み” は空気を自在に操るって言うぞ」
「いいじゃねえか、文字通り昇天ってな!」
 ——愚か者どもめ、聴こえておるというに。
 当の《風葬り》エアリーン——エアは、カウンターに肘をげに溜め息を一つ吐く。聞き飽きたとはいえ、不快なことには変わりない。
「ところでよ、話は変わるんだが……」
 酒場にたむろする “猟人” たちは、さまざまな話題を肴に酒を飲み交わす。
 ——街外れの洞窟に古代遺跡が見つかった。そんな噂に釣られて向かったら、そこは盗賊の巣窟で、追いはぎの手口だった。いや、あの洞窟には確かに古代遺跡があり、妖精が作った道具が埋まっている。それは違う。あれは竜の巣だ。埋まっているのは竜骨だ。お前らは何を言っているんだ。幻惑の薬でも飲んだのか? 幻惑の薬は飲み薬じゃない、匂いを嗅がせる香の一種だって話だ。どっちでもいい。薬でもやって頭がおかしくなって、それで変なものを見たんじゃないのか? 確かにありえる話だ。いやいや確かに見たんだって。だいたいその洞窟ってどこにある——、
 と、そのとき、酒場に怒声が響き渡る。
「おう、よく聞け屑野郎ども! 毎日毎日飲んだくれるばかりで働かないてめえらに仕事だ! それもクソがつくほど簡単な、な!」
 店主が大声で怒鳴り散らした。噂話はそこで途切れ、“猟人” たちの意識が、店主に集中する。
「何させようってんだクソ親父よう!」
「ただ荷物を目的の場所まで届けて戻ってくるだけだ! どうだ、こんな簡単なクソ仕事他にはねえぞ!」
「荷物の中身は何だ!」
「そいつは言えねえな! 依頼主のご意向ってやつだ、てめえらは黙って運びゃいいんだよ屑野郎!」
「上等だ!」「受けてやろうじゃねえか!」「お前にゃ無理だ、俺がやる!」「んだと貴様!」
 ざわめく店内。俺が俺がと言い合ううちに、手が出始める。騒然、収集がつかなくなるかと思われたが、
「黙りやがれ屑野郎ども!」
 店主の一喝、ただそれだけで、静まり返った。
 ゆっくり、静かに、しかし力のった口調で、低く話し出す。

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